昨日の朝、目が覚めたときのことなのですが、目が覚めるとふいに
「それでも」
という言葉が浮かび上がりました。
その言葉を頭の中で反芻していくうちに、からだに纏っていた「何か」がほろりと、またはするりと外れていく感覚を覚えました。それはひょっとしたら「脱皮」という表現がいちばん近いかもしれません。
もちろん、これは感覚上の話であり、実際に重みのある何かがからだから離れていった、というわけではありません。しかし、その「音」にもならない「音」を、わたしははっきりと聴くことが出来た気がしました。
では何故「それでも」ということばに「反応」または「呼応」したのでしょうか。
最初はよくわからなかったのですが、このことばを反芻していくうちにひとつの文章になるなどして、ようやくそのことばが伝えたい「気持ち」や「姿勢」のようなものを理解することができました。
「それでも」という語句をネット辞書で紐解いてみると
そうであっても。そうだけれども。「接続詞」
という結果が出ました。
語句だけでは、特に深い意味はないようです。が、この「それでも」を使うとき、みなさんはどのような心境にいるかが、実は重要なのです。
それでも、わたしはやる。
それでも、この仕事を続ける。
それでも、あきらめることはできない。
それでも、あの人を憎むことはできない。
それでも、この事案については追求すべきだ。
それでも、目を背けるわけにはいかない。
それでも、わたしは幸せになりたいからそちらを選ぶ。
それでも、わたしは誓いを果たす。
それでも、わたしは生き抜く。
それでも、この料理は食べたくない。
それでも、いいんだ。
それでも、この気持ちは変わらない。
それでも、行かなければならない。
それでも、
それでも?
それでも!
それでも。
読者のかたは、どんな「それでも」をお持ちでいらっしゃるでしょうか。
わたしの場合は「それでも」ということばを覚えたことで「頑な」という姿勢から、余計な力が抜けたより「自然体」に近い姿勢へと変容していった感覚を覚えました。
それはもちろん心の中の変化であり、頭の中の変化です。
それが外に出て、変化を及ぼすとしたら、言動であったり、佇まいになると思います。そしてそれは自分自身ではなかなかわからないことであり、他の誰かに指摘されて、初めて気がつくものなのかと思います。
「それでも」ということばには悲壮感がありません。孤立感もありません。孤独感や孤高感はあっても、そこに痛々しい悲しみや苦しみはない印象を持ちます。そういった印象を持つのはある種「理想」なのかもしれません。というのは、誰かひとりの行動の波及する先を、行動を起こした当人が把握することもコントロールすることも出来ないから。そう考えると、昨日の日記にも書いた「じぶんの利益や幸福のために誰かを傷つけたり不幸にさせたりする」という考えは、当てはまらなくなるのかもしれません。
その背景にはこの世界や世間がより複雑になってきたことが挙げられます。かといって昔がシンプルだったのかと言われれば、その時代はその時代なりの複雑さがあったように思います。ただ注意しなければならないのは、今も昔も、行動ひとつで色んな展開や波紋を呼ぶことにつながるということ。自分だけの目的を達成して終わり、という訳には必ずしもならないのです。例えで言えば、自分の利益のためについた「嘘」です。その時はその嘘をつくだけでOKかもしれませんが、その内容を聞いた誰かがその話を基に行動を起こした場合、嘘をついた人の話の辻褄が合わなくなってくる場合があります。そうなってしまったときにどうするか。その人は重ねて嘘をつきます。嘘をついてついてついてつきまくって、周りを嘘で固めてしまいます。すると最終的にどうなるでしょうか。想像に難くない結果が待っています。これはかつてわたしがアルバイトで働いていた社長の実話です(汗)
この世界には70億もの人がいます。60億と言われた時代が過去にありましたが、10億違ってももの凄い数の人間がこの地球上で生活しています。
この中で日本に生活している人、そして特定の都道府県、市町村、地域に絞られると毎日顔を合わせる人は固定化されてきますが、元々は膨大な数の人が分母にあり、その中のひとりとわたしたちは日々顔を合わせています。それが家族だったり、仕事上の同僚や友人、交際中の相手の他に、久々に会った人や、運命的な出逢いも含まれます。
実は日常の中に「奇跡」は含まれています。
70億分の1にあたる人に、わたしたちは毎日出逢い、会話し、行動を共にしています。そんな奇跡の中出逢った人に対して、ネガティブなこと、マイナスなこと、じぶんを立てるために蔑ろにするようなことは、やってはいけないような気がします。仮に今はそういったことをしても「仕方ない」時期だったとしても、それはやがて無くしていかなくてはならない。そうしないと、この地上で起きている悲しみは絶対に無くなりません。体制を変えるよりも、まずはわたしたち人間が変わらなければいけないと思います。
「それでも」ということばを加えても、却って人が離れるようでは意味や意義がありません。逆に人が慕い、集まるようにならないとだめなのです。「それでも」ということばは、決意や覚悟をかっこよく見せることばであって欲しいなとわたしは思います。
わたしも「それでも」ということばを使って幾つかの文章を組み立てました。
その爽やかさや静謐さ、何も飾らない素朴さが、その先に見えていました。
その感覚は以前に行った心のガラクタ整理がもたらしたすっきり感に似た、また一段階違う充実感であり、何よりも「受け容れる」ことが出来た瞬間を垣間見たのかもしれません。
昨日、そして今日の朝と「それでも」ということばについて感じて味わい、カードを引いてみたところ
昨日の朝は
No.54「シャーマン」が
そして今朝は
No.28「先祖のスピリット」が顕われました。
シャーマンのキーワードは
「メディスンマン」「メディスンウーマン」「生来の神秘家」「霊媒」
先祖のスピリットのキーワードは
「先祖」「見えざる長老たち」「家系」「血統」
「それでも」という考えに至った、もしくは「導かれた」背景には、シャーマンのカードに係る「癒し」が起こったものと考えられます。それは人であったり、本や音楽、これまでの積み重ねから引き出された新たな法則だったりもすると思います。
先祖のスピリットは今回初めて引いたカードです。先人の叡智を求めよといったことが書かれており、手を伸ばせ、との箴言がされています。そう考えると、わたしは無意識にこれまで「手を伸ばそうとしていた」のかもしれません。最初は手を伸ばしているつもりでも、実際には手はピクリとも動いていなかったのが、この段階で「やっと」手を動かし、そして伸ばすことができた。その背景には、意思とからだが初めて「リンク」したということも考えられるし、手の動きを邪魔していた「重たいもの」が取り除かれた、と考えることもできます。
とするならば、この「それでも」というスタンス・ドットは、わたしが1万年以上も昔からこころと魂に備え、信条としてきたものに他なりません。それを昨日からの2日間でかたちにすることができたことは、とても誇らしく、そして感謝に絶えない気持ちです。
それでも。
たった四字のことばではありますが、ここまでの想いや考えを巡らせることができました。
読者の方々にはどんな「それでも」があるでしょうか。想いを巡らせてみるのもいいですね。
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