つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「それでも。」

昨日の朝、目が覚めたときのことなのですが、目が覚めるとふいに

 

 

 

「それでも」

 

 

 

という言葉が浮かび上がりました。

 

 

 

その言葉を頭の中で反芻していくうちに、からだに纏っていた「何か」がほろりと、またはするりと外れていく感覚を覚えました。それはひょっとしたら「脱皮」という表現がいちばん近いかもしれません。

 

もちろん、これは感覚上の話であり、実際に重みのある何かがからだから離れていった、というわけではありません。しかし、その「音」にもならない「音」を、わたしははっきりと聴くことが出来た気がしました。

 

 

 

では何故「それでも」ということばに「反応」または「呼応」したのでしょうか。

最初はよくわからなかったのですが、このことばを反芻していくうちにひとつの文章になるなどして、ようやくそのことばが伝えたい「気持ち」や「姿勢」のようなものを理解することができました。

 

 

 

 

「それでも」という語句をネット辞書で紐解いてみると

 

そうであっても。そうだけれども。「接続詞」

 

という結果が出ました。

 

 

語句だけでは、特に深い意味はないようです。が、この「それでも」を使うとき、みなさんはどのような心境にいるかが、実は重要なのです。

 

 

 

それでも、わたしはやる。

それでも、この仕事を続ける。

それでも、あきらめることはできない。

それでも、あの人を憎むことはできない。

それでも、この事案については追求すべきだ。

それでも、目を背けるわけにはいかない。

それでも、わたしは幸せになりたいからそちらを選ぶ。

それでも、わたしは誓いを果たす。

それでも、わたしは生き抜く。

それでも、この料理は食べたくない。

それでも、いいんだ。

それでも、この気持ちは変わらない。

それでも、行かなければならない。

 

それでも、

それでも?

それでも!

それでも。

 

 

 

読者のかたは、どんな「それでも」をお持ちでいらっしゃるでしょうか。

 

 

 

わたしの場合は「それでも」ということばを覚えたことで「頑な」という姿勢から、余計な力が抜けたより「自然体」に近い姿勢へと変容していった感覚を覚えました。

 

それはもちろん心の中の変化であり、頭の中の変化です。

それが外に出て、変化を及ぼすとしたら、言動であったり、佇まいになると思います。そしてそれは自分自身ではなかなかわからないことであり、他の誰かに指摘されて、初めて気がつくものなのかと思います。

 

 

 

「それでも」ということばには悲壮感がありません。孤立感もありません。孤独感や孤高感はあっても、そこに痛々しい悲しみや苦しみはない印象を持ちます。そういった印象を持つのはある種「理想」なのかもしれません。というのは、誰かひとりの行動の波及する先を、行動を起こした当人が把握することもコントロールすることも出来ないから。そう考えると、昨日の日記にも書いた「じぶんの利益や幸福のために誰かを傷つけたり不幸にさせたりする」という考えは、当てはまらなくなるのかもしれません。

 

その背景にはこの世界や世間がより複雑になってきたことが挙げられます。かといって昔がシンプルだったのかと言われれば、その時代はその時代なりの複雑さがあったように思います。ただ注意しなければならないのは、今も昔も、行動ひとつで色んな展開や波紋を呼ぶことにつながるということ。自分だけの目的を達成して終わり、という訳には必ずしもならないのです。例えで言えば、自分の利益のためについた「嘘」です。その時はその嘘をつくだけでOKかもしれませんが、その内容を聞いた誰かがその話を基に行動を起こした場合、嘘をついた人の話の辻褄が合わなくなってくる場合があります。そうなってしまったときにどうするか。その人は重ねて嘘をつきます。嘘をついてついてついてつきまくって、周りを嘘で固めてしまいます。すると最終的にどうなるでしょうか。想像に難くない結果が待っています。これはかつてわたしがアルバイトで働いていた社長の実話です(汗)

 

 

 

 

この世界には70億もの人がいます。60億と言われた時代が過去にありましたが、10億違ってももの凄い数の人間がこの地球上で生活しています。

 

この中で日本に生活している人、そして特定の都道府県、市町村、地域に絞られると毎日顔を合わせる人は固定化されてきますが、元々は膨大な数の人が分母にあり、その中のひとりとわたしたちは日々顔を合わせています。それが家族だったり、仕事上の同僚や友人、交際中の相手の他に、久々に会った人や、運命的な出逢いも含まれます。

 

実は日常の中に「奇跡」は含まれています。

70億分の1にあたる人に、わたしたちは毎日出逢い、会話し、行動を共にしています。そんな奇跡の中出逢った人に対して、ネガティブなこと、マイナスなこと、じぶんを立てるために蔑ろにするようなことは、やってはいけないような気がします。仮に今はそういったことをしても「仕方ない」時期だったとしても、それはやがて無くしていかなくてはならない。そうしないと、この地上で起きている悲しみは絶対に無くなりません。体制を変えるよりも、まずはわたしたち人間が変わらなければいけないと思います。

 

 

 

「それでも」ということばを加えても、却って人が離れるようでは意味や意義がありません。逆に人が慕い、集まるようにならないとだめなのです。「それでも」ということばは、決意や覚悟をかっこよく見せることばであって欲しいなとわたしは思います。

 

 

 

 

わたしも「それでも」ということばを使って幾つかの文章を組み立てました。

その爽やかさや静謐さ、何も飾らない素朴さが、その先に見えていました。

その感覚は以前に行った心のガラクタ整理がもたらしたすっきり感に似た、また一段階違う充実感であり、何よりも「受け容れる」ことが出来た瞬間を垣間見たのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

昨日、そして今日の朝と「それでも」ということばについて感じて味わい、カードを引いてみたところ

 

 

 

 

昨日の朝は

 

No.54「シャーマン」が

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そして今朝は

 

 

No.28「先祖のスピリット」が顕われました。

 

 

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シャーマンのキーワードは

メディスンマン」「メディスンウーマン」「生来の神秘家」「霊媒

 

先祖のスピリットのキーワードは

「先祖」「見えざる長老たち」「家系」「血統」

 

 

 

「それでも」という考えに至った、もしくは「導かれた」背景には、シャーマンのカードに係る「癒し」が起こったものと考えられます。それは人であったり、本や音楽、これまでの積み重ねから引き出された新たな法則だったりもすると思います。

 

先祖のスピリットは今回初めて引いたカードです。先人の叡智を求めよといったことが書かれており、手を伸ばせ、との箴言がされています。そう考えると、わたしは無意識にこれまで「手を伸ばそうとしていた」のかもしれません。最初は手を伸ばしているつもりでも、実際には手はピクリとも動いていなかったのが、この段階で「やっと」手を動かし、そして伸ばすことができた。その背景には、意思とからだが初めて「リンク」したということも考えられるし、手の動きを邪魔していた「重たいもの」が取り除かれた、と考えることもできます。

 

 

 

とするならば、この「それでも」というスタンス・ドットは、わたしが1万年以上も昔からこころと魂に備え、信条としてきたものに他なりません。それを昨日からの2日間でかたちにすることができたことは、とても誇らしく、そして感謝に絶えない気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも。

たった四字のことばではありますが、ここまでの想いや考えを巡らせることができました。

 

読者の方々にはどんな「それでも」があるでしょうか。想いを巡らせてみるのもいいですね。

 

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表面だけの「正しさ」に惑わされない。

ここ数日、PCの前に座ってひたすらデスクワークをしているため、この時間になると思考能力がガクンと下がり、パフォーマンスの低下が著しいです。

 

実は日頃お世話になっている方が所有していたものを整理するということで、飛び飛びでありながらもその現場に立ち会っていました。その中で「これはオークションで売却したほうが良いのでは」と思えるものを選別のときにチョイスし、本人了解のもとで現在ネットオークションに出品しています。

 

その数を見てみると、300近い数に(汗)

現在終了している点数が40点を超えるので、ほぼ1週間かけて300を超える商品の写真を撮影したり、出品していたようです。こりゃ疲れ溜まりますわ(笑)

 

こんなにたくさんあるのだから一括で引き取ってもらえばいいものを、という考えがもちろんその人にもあったのですが、その現場に居合わせたのが運のつきというか、往生際が悪いというか、天邪鬼な性格が出てしまい、上記のようなことを請け負ってしまったのです。それは嫌々ではなく、日頃お世話になっているせめてもの恩返しの一環、という感じでやらせていただくことになりました。でもこれはボランティアではなく、しっかりとした仕事として行うことを前提としているので、手数料をいただくことで双方の意見が合致しています。

 

出品している点数が300を超えているのですが、実際に自宅に運び入れたのは300点以上もあり、重いダンボールを何箱も運んだことが何だか昔のことのようです(笑)その日は9月にしては暑く、その時着ていた服が汗でびっちょんこのびっちょんこになっていました。

 

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 画面左側が運び入れたダンボール箱。全部重いです。びっちびちです。

 

 

そんなんでずぅ~っとデスクワーク。

テンプレート等も用意していますが、テンキーを叩く時間が圧倒的に多かったため、日々の最低限のノルマをこなすのが精いっぱい。最初は流れに乗ることが出来ないところもあったため、燃費も悪く、からだに余計なかけることも。それも今日で「ひとまず」ひと段落つけたので、一安心です。

 

今週に入ってからはこの出品作業も先が見えていたので、録画してあった番組をかけながら作業に打ち込み。

 

結局一気に見てしまうかたちとなりましたが、アニメーションOVAの「ロードス島戦記」全13話を先日に、そして今日は実写映画ではあるのですが「るろうに剣心」3部作を一気に鑑賞しました。

 

 

公式サイト(京都編)

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

 

 

るろうに剣心週刊少年ジャンプで連載されていた人気作品。

明治の日本を舞台とした、志士の物語です。

 

映画は原作を基としながらオリジナルストーリーを組み込んだ内容となっており、一気に見た感想としては「3部作では物足りない」という印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

この作品からは「現実を直視しろ」という強い念と「理想を追い、実践し続ける」という強い想いというのを感じています。

 

 

作中では特に

 

「力こそが正義」

 

 

といった主張が繰り広げられます。これはある意味、正しい主張です。

力がなければ何もできない。飯も食えないというのが、力のある者の言い分です。

 

 

そう考えると、立場だったり能力だったり、お金だったりと様々ありますが、それと引き換えにじぶんというものを提供するのは、穿った見方をするなら「服従」と取ることもできてしまうのではと感じました。

 

 

そのような事象は表現にもよりますし、置かれた環境で異なってきます。自身の受け止め方にもよりますし、その本質を見抜けぬまま、表面上の満足感に浸ってしまうことも考えられます。

 

 

 

 

 

ただ何となくというか、理想論かもしれないのですが、何かひとつの正義を手に入れるために起こす(起こした)行動が、誰かを傷つけるものであればそれは「正義」ではなく単なる「自己満足」のための手段でしかないということ。仮にその人からもっともらしい、説得力のある内容を聞かされたとしても、そこからかけ離れた振る舞いをしているのであれば、その人にとっては「正しいこと」であっても、他のひとにとっては必ずしもそうではないというスタンスになります。これは特定の時代にあてはまるものではなく、いつの時代でもあることで、この時代は特にそうだ、というものではないのだとも感じました。

 

 

 

 

そういった現実論を推し進め、成長した様はやはり強固です。

太刀打ちが出来なければ、余計にその強さからくる「正しさ」のようなものを証明するほうへ加担してしまいます。

 

しかし「理想」はやはり大事なのです。誰もが理想があって進み始め、様々なことを成し遂げます。いまは現実主義であったとしても、その根拠には理想があったはず。それを変えるのも、そのまま進めていくのも、人が関わるし、想いや考えも充分に影響してくると言えます。

 

 

 

物語はそんな「力による正義」を極端に推し進めた一派が負け、ハッピーエンドになります(物語の内容は割愛します)。それは映画においてはおきまりの展開ではありますが、作中に込められているメッセージのような、問題提起のようなものを受け取りながら、傍らでデスクワークをこなしていました。

 

 

 

 

 

仏教用語になりますが、この世界は「穢土(けがれた土地)」と呼ばれます。

何を指して「穢れ」ているのか、不勉強なのでわたしにはわかりませんが、こういった物語や、自我を通してばかりの人々を見かけると、なるほどと思ってしまいます。

 

 

わたしたちがこの世界で何をするべきなのか、その本当の目的はおそらく生存中にわかることはないと思います。でも、自我に従順になり、周りの迷惑考えず・・・では、何だか違うような気がします。自分が幸せになるために他の誰かが不幸になる、というのは、それ自体は必要な場合があったとしても、いつまでも必要であってはならないのではないかと考えてしまうのです。

 

 

 

たかがひとつの映画に何をそこまで・・・と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも違った見方をすれば、至る所に「考えを巡らせる材料」はごろごろ転がっていると言えます。それに気づかなっかり、見て見ぬふりをしていたりしているのだと思います。

 

 

わたしの理想も、ことばだけで語るには目標が高すぎると感じることがあります。

しかしそれも、日々の実践や、失敗及び成功などの経験を重ねていくことで、より生きた理想に変化していくことが出来ると確信しています。そうでなければ、またわたしは途中であらゆることを投げ出し、進むことを止めてしまうでしょう。

 

 

いまがどのような期間か、うまく説明することはできないですが、このような期間を経験していくことで、理想を反映させた仕事や、生活をしていくことにつながるのだ。

 

 

 

お昼から夜にかけて一気に鑑賞した映画を見ながら、そんなことを考えていました。

 

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きっかけを思い出すと、その先の可能性が見えます。

 

この連休中、というか、ほぼ1日でこの作品を一気に見ていました。

 

 

 

それは

 

ロードス島戦記

 

でした。

 

 

 

ウェブサイト

 

ウィキペディア

 ロードス島戦記 - Wikipedia

 

 

 

1988年に小説が刊行されたとき、わたしは小学校6年生。

 

実質、この作品に触れたタイミングは中学生でしたが、一気にこの作品に引き込まれました。その後「ロードス」シリーズは加速し、ライトノベルというジャンルを確立させます。

 

それこそ世界を見れば「指輪物語」や「ゲド戦記」といったものがずっと昔に刊行されていましたが、このロードス島戦記は日本が生んだファンタジー小説といえます。

 

 

わたしが見たのは「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)」。

1話がおよそ30分収録されたビデオテープを、当時はレンタルビデオ店からレンタルして見ていました。

 

自分のお気に入りの作品がこうして映像化されるのは本当に嬉しいことで、誰が声を担当するのか、どのような画になるのかなど、わくわくした記憶があります。今やそういったワクワク感もすっかり慣れてしまい、薄らいでいるのも事実ですが、そういったきっかけを持つことが出来て良かったと思っています。

 

 

 

昔は「アニメ」とは言わず「マンガ」とひとくくりにされ、それこそ「勉強等の大敵」とされていたような気がします。「○○ばっか見てないで勉強しなさい!」と親に言われたりというのは、今も昔も同じかもしれませんが。

 

でも大きく違うのが「マンガ」や「アニメーション」の立ち位置。以前は何となく「蔑視」されていたような感じに見えていたのですが、今では「大事なことを教わる」教材にもなり得ています。それだけ扱う題材や、描写にも大きな変化、改革が生まれ続けたのでしょう。

 

 

 

先日試写会で観てきた「聲の形」という作品も、以前であればまったく考えることの出来ない設定の作品でした。そして現在劇場公開中で、話題沸騰中の「君の名は」という作品も、そのストーリーであったり、監督であったりと、他に注目すべき要素が詰まっているというところが目を見張ります。

 

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そう考えると、作品のクォリティが向上(成長)するとともに、見る側の感受性なども向上(成長)しているのかなと思いました。画質や絵の力だけではなく、セリフや音楽ももはや一級品で、文化と言っていいほどです。歴史としては短いかもしれませんが、この変遷を見ることができたことが、よかったなぁと思えています。

 

昔の作品も、いま現在の作品も、かんたんに見ることができるようになった時代ですが、どんな作品においてもただ「観る」のではなく、噛み締めるように「観る」ことで、じぶんの心に何らかの「きっかけ」を与え、才能を開花させる「エッセンス」のひとつになる。

 

 

 

 

 

そう考えると、じぶんに触れるものがどんな展開を生むのだろう。

そんなワクワクを持つのもいいのかもしれませんね。

 

 

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受け容れるということは、ていねいに生きるということ。きょうもあしたもていねいに。

今朝の北海道は、ところどころとても冷えたようです。

 

日中の札幌の気温は、おそらく20度いかなかったと思います。

地方によっては、朝の気温が一桁台だったところもあるようで、一気に秋の気配、そして冬の匂いが香ってきたような感覚です。

 

大雪山でも雪が降ったようです。紅葉は例年よりも遅かったようですが、それでも訪れる季節の便りに目を奪われる人がいることを嬉しく思いたいものです。

 

 

 

トレッキングやキャンプも来月くらいまでがピーク(地域によりけり)だと思っていて、今週末には再びボランティアで複数の山を登ります(縦走)。そして気温が低くなった時期になってはしまいますが、キャンプも実施することになっています。寒さが堪える時期に入りますが、秋の星空を眺めることが出来るのがとても楽しみです。

 

リオのパラリンピックも終了したようですね。プロ野球ペナントレースも残り10試合程度。季節の移り変わりといったニュースを見ると、改めて「変化」には逆らえない、受け容れなければならないなという考えが浮かんできます。

 

 

 

 

 

 

 

受容する、受け容れるという表現はあるものの、それがすんなりいくときと、なかなか強情になってしまい、安易に受け容れることができないときとがあります。それらすべてが何の抵抗なくすすめばもちろんいいのですが、そうは問屋がおろさぬのが人間の感情であり、思考であるようです。

 

 

 

かといって、受け容れるというのは「諦める」とはまったく違う感覚です。

諦めるが「脱力」と表現するなら、受け容れるというのは「自然体」であり、何ら余計な力がかかっていません。それが理想に近い立ち位置ではありますが、うまくいかないからこそ、却って私たちは成長を進めているのかもしれません。

 

 

 

 

 

今年のわたしのテーマとも思えるこの「受容」ということばは、様々な思索を与え、刺激し続けてくれます。答えが見つからないからこそ、解決しないからこそ、じぶんが触れる様々な物事から学び、活かすことにつないでいくことで自然と理解できる境地に達する、そのような流れに乗れることをふんわりと願いながら日々を過ごしています。

 

 

 

 

 

注意しなければならないのは「受容」の仕方。

 

 

 

 

「これは天の采配ね♪」と陽気になるのはいいのですが、それらの出来事はすべて大いなる存在がもたらしたもの、というスタンスは少々危険です。そこに依存してしまうと信用を失いますし、極端になると「責任転嫁」をすることだって考えられます。要するに自分は悪くないという考えが定着してしまうことが最も危険です。

 

わたしたちは何かに接することで「学び」を得てきましたし、その展開はこれからも変わりません。仮に天の采配のような出来事があったとしても、それは果たして人生全体の何%になるでしょうか?それが100%であることは決してありません。その理由は、大いなる存在は「傍観」が大原則とされています。そんな存在が、70億もいる人間に対していちいち「采配」を振るうかと言えば、少々疑問が残ります。采配を振るわれることで「自分は特別」といった感覚を得てしまうのは、結論から言って「残念」でしかありません。

 

わたしたちは感情もあれば思考もあります。ということは、何かに触れて学ぶことで「反省」だったり「啓発」もされたりします。そこにあるのは「謙虚な姿勢」そのもの。言い換えれば「ていねいに生きる」。いま、ていねいに生きているひとは果たしてどれだけいるでしょうか。

 

自分の利益にのみ目が行き、周りとの摩擦などお構いなしで突き進む人が目立つように感じてきた昨今。その人の生き方は決して「ていねい」ではないと思ってしまいます。その背景には「表面の感情」にのみ反応し、流され、そして行動してしまうという一種の「幼さ」が滲み出ています。それに気づきもせず、相手にはそれなりに立派なことを言い切ってしまう。そのアンバランスにも気がつかず、徐々に孤立してしまうのです。その展開を「天の采配」としか受け止めないがために、本質の課題を棚上げにしたまま、浪費を続けてしまうのです。

 

 

 

 

いつもこんなことを書いていますが、かつてのわたしも「そちら側」の人間でした。いまはあの時よりは「ていねいに」生きようとしているなと実感しています。様々な失敗等を反省し、1秒でも先の人生に活かそうとしています。この場ではことばで語ることしかできませんが、声を出して話すこと、そして自らが動くことで、それを表現していきたいと思うようになりました。

 

そのような考えに至ったのも、様々な人たちとの出逢いがあり、会話があり、思い出があるからです。時には感動し、時には振り返って反省する。それが少しでもできるようになっていけば、日常の光景は少しずつ変わっていくことでしょう。

 

 

 

 

 

 

明日はどんな出逢いがあって、どんな会話がされて、どんなことを想うのか。

 

 

それは予め用意されたものではなく、じぶんで動かしていくものだと思いたい。

だって、誰かが用意したものであったなら、面白くないから。

 

 

 

 

 

 

天邪鬼なわたしは、ついついそんなことを考えていました。

 

 

 

 

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「伝える」という行為に責任を。ひとりよがりな言動は、あらゆるコトを棚上げします。

昨日の日記もそうだけど、最近の日記の中には考えがまとまりきらない状態でも書き起こすということをしています。これまではある程度の形にならなければ表に出すべきではないという考えがあったからなのですが、表に出さないままにしていくといつしか忘れてしまうことも出てきたので、ある程度まで練り上げることができたものであれば、このブログに書いていくことにしました。

 

それでも、書いた後で思うのは、その内容は自分の意に沿ったものかどうかという点。迷いというのではなく、純粋に自分の考えをしっかりと表現出来ているかというのがどうもきになってしまいます。

 

 

昨日の日記はその代表例でした。

 

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色んな見方がありますが、スピリチュアルのプロを名乗る人は数多にいます。でも、その中でもナンチャッテなプロもいるでしょうし、純粋にプロ精神に欠けた自称プロもいると思います。そんな人であればあるほど、ことばを「巧み」に利用し、安定した実績のためのリピーターを増やしているという現実、または事実があります。要は、それを遠まわしに「それってどうなんでしょ?」というメッセージを載せたかったのです。

 

そんな気持ちがあっても、ストレートに伝えたとしても、恋に限らずスピリチュアルも盲目そのもので、単純に諫言を聞いてくれるとは限りませんし、高確率で反発されるでしょう。そこで離れていく人もいるでしょうし、後日事が明るみになったとしても、その交友関係は修復されないまま、癒えない傷を抱えてしまったりするのです。

 

 

 

残念ながら、それが必要なケースもあります。でも、やはりそういった悲しみは極力少なくしたいと思ってしまいます。ひとは特に自分の選択した道の正しさを強調するあまり、相手に心無いことばをぶつけます。それが「ひどい内容」だとわかったとしても「謝る」ことは何故かしません。口籠るだけで、自分の信じた道を進んでしまい、それで関係は終わりになります。果たして、それでいいのでしょうか?自分の人生だからといって、そんな痛々しいことを「何度も」行う必要があるのでしょうか?宗教でもスピリチュアルでも、何かしらの大いなる存在にハマりながらも、同じことを繰り返しているようでは、それは一向に改善していないのと同義です。そしてそれは、お金に対する姿勢にも当てはまります。それを自分でよくわかっていないにも関わらず、ああだこうだと相手を断罪するかのように責めたてたり、自分の正当性を主張するようでは、その人の性格も、その先の人生も知れてしまう程度のものとなるのではないかと思います。

 

 

 

こんな補足を付けたとしても、無意味かもしれないけど、やはり言いたいときは言いたいのです。いつか言わなければならないときもあるだろうから、その布石として昨日の日記、そして今日の補足とさせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

今朝はテレビで「こち亀」こと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のテレビアニメを見ました。久々に両さんのアニメを見ましたが、純粋に楽しかったです。

 

昨日は週刊少年ジャンプをこれまたすごい久々に購入し、こち亀の最終話を読みました。

 

あの世界にある浅草をはじめとした昭和の風景は、やはり良いものだと思いました。

 

 

 

先日、図書館で借りてきた図書。

塔和子さんの詩がきっかけで、何冊か詩の本を借りてきました。

 

 

 

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昨日購入した週刊少年ジャンプも。

 

 

特に中身を確認せずに借りてきたのですが、長田弘さんの本「人はかつて樹だった」に掲載されているいくつかの詩に、昨日から抱いていた考えに対する「ひとしずくの水」のような、からだ全体にしみわたる感覚を与えてくれました。

 

 

 

 

 

 

一部だけを紹介すると

 

世界のうつくしさは、たぶん悲哀でできている。

-世界の最初の一日-

 

 

 

自由とは、どこかへ立ち去ることではない。

考えぶかくここに生きることが、自由だ。

樹のように、空と土のあいだで。

-空と土のあいだで-

 

 

 

老いるとは受け容れることである。

あたたかいものはあたたかいと言え。

空は青いと言え

-樹の伝記-

 

 

 

 

 

そして、江國香織さんの詩集「すみれの花の砂糖づけ」に収められている「うしなう」という作品は、正直はっとさせられる。こんな立場の見方があったのか、と。

 

著作権が係ると思うので、機会があれば本屋さん、または図書館で読んでみてください。

 

 

 

 

 

まとまった時間を、詩を詠んで過ごすことに充てたとき、なんだか、じぶんが目指す「スタンス・ドット」の片鱗が見えたような気がしてなりませんでした。

 

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本当に伝えなければならないことであれば、そこには厳しさも含まれる。美辞麗句かどうか疑うことを忘れないように。

わたしたちは生きていく以上、様々なコトにぶち当たります。

 

 

 

その苦しみや悲しみなど、辛さというのは当人にしかなかなかわからないところがあり、その当人も解決策だったり、救いを求めて行動したりします。

 

打開策を求めた人によっては、解決したり、深みにはまるということはよくある話で、そこには「神秘性」だったり「楽して」だったりと、何だか魔法のような、もしくは奇跡のような匂いをこれみよがしに放っていたりします。

 

 

 

 

わたしもこれまでいろんなところでいろんな話を耳にしてきました。どれが正しく、どれが間違っているというのは、言って伝わる人と、伝わらず逆に激高される人がいるのでここではどうのこうの言うつもりはありません。

 

 

 

 

 

 

ただ、考えて欲しいことがあります。

 

ひとつめは「そのメッセージの類」の出所はホンモノ(詳細)かどうか。

ふたつめは「お金を楽して増やす・手に入れる」ことに手を染めていないか。

 

 

 

主にこの2つですが、わたしたちは自分にとって利益となることに対して全幅の信頼を置いてしまいがちです。それはひとつの価値基準でもありますが、その判断のすべてが正しいかどうかという点については、一抹の不安を感じています。

 

理由としては「もう疲れた」「もういやだ」「解放されたい」などの、これまで積み重なってきた苦労というのがあります。過去に積み重ねてきたネガティブなことが判断を狂わせ、目先の「楽なコト」や「今の自分にとって都合のいいコトバ」を選んだりしてしまいます。

 

自分の気持ちや行動を肯定するコトバはこの世に数多とありますが、そのコトバ単体を切り貼りして自己肯定に使うのはちょっと違います。ことばも行動も「使うべき時」と「使うべき方向」があります。そこを勘違いしてしまうと、前に進んでいるように見えても、ぐるっと1周してやり直し、なんてこともあり得る訳です。

 

 

 

 

「だってしょうがないでしょ」と言う人もいるかと思います。

 

それしかなかったんだ、ということばは切実なものではありますが、その言葉を使う前に、一度振り返ってみていただきたいと思います。そして、ご自身の信条ともう一度照らし合わせていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

わたしたちは普段、現実的な言動を取っておきながら、いざ自分自身のこととなると「奇跡」といった展開を望みがちです。

 

その背景には「日々祈ってきた」等の行動があるかもしれません。祈りを向ける先もたくさんあるので、そういった行動には移しやすいと思っています。

 

 

 

ただ、ここ数年耳に入ってくる言葉は「願いを叶えるには対価が必要」というものでした。

 

自分の願いを叶えてもらうために必死になるのはいいのですが、その代わり「わたしは○○します」といった「誓い」がないということ。現実世界でもそうですが、対価を払わずに自分の要望だけ叶えてもらうというのは、ちょっと欲張りな気もします。ひょっとしたら、これまで対価を払わず、ただ願って叶えてきた人に対しては、後々対価を支払う時期がやってくるのかもしれません。それが現実のもとになるかどうかはわかりませんが、何となくそれが「自然」という印象を持っています。

 

 

 

 

 

 

 

こんなことを書いていますが、わたしもオラクルカードを引き、リーディングを行う「たくさんのなかのひとり」です。

 

上記のようなことを書いておいてここで述べるのもなんだか変ですが、わたしがカードを引き、リーディングする際は「自分で責任の持てる範囲」のような感覚で集中し、カードを引いては感性に従って書き記しています。

 

 

 

そこにはひょっとしたら「厳しいコトバ」が並ぶかもしれません。

でも、ウソをついてまったく違う、真逆のコトバを書くよりは、厳しいコトバを伝えるほうを、選びます。それが、求めに対して顕われてきた「与えられたコトバ」であるからです。

 

 

 

 

このコトバは厳しい。これは嘘っぱちだ。

このような安易な判断で見分けようとするのは、本来は危険なことなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

大層大きいテーマを考えながら引いたカードが

 

 

No.46「慈愛」でした。

 

 

 

 f:id:maruyamabase:20160123104130j:plain

 

 

キーワードは「共感」「気遣い」「親切」「配慮」「理解」

 

 

このキーワードだけを見ていくと、伝える側の調整もいいのではないか?と思ってしまうのですが、わたしはこの「慈愛」の中にも「厳しさ」は入っていると確信しています。

 

厳しさを感じてもらいつつ、そこにキーワードのようなエッセンスを加えることで、厳しさも慈愛のひとつなのだとわかってもらえるような気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

「大事なものは、目には見えない」

星の王子様で有名なこのセリフが、なぜかこだましてばかりでした。

 

 

 

 

 

 

こうやって書いていくと、結構難しいことに対して書こうとしていたようです。

 

 

 

 

 

 

今日はこの辺で切ります。こち亀最終回を読むとします。

 

まだまだ無名だから書けるような、昨日から思っていたコトでした。

 

 

 

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孤独ではなく、孤高でもなく。~わたしがこの先目指すもの~

数日前にあがった話で

 

 

「孤独」とも「孤高」とも違う佇まいでいたい

 

 

という、なんとも抽象的なテーマがありました。

 

 

 

 

 

 

これはたぶん、今の世が「おひとりさま」というのが定着していたり、行動の元は「ひとり」というのが背景にあるのだと思います。

 

 

 

読者のみなさんも「孤独」と「孤高」は何となく違うというのはわかっていらっしゃると思うのですが、果たしてどれほど違うのでしょうか。語句をネットで調べてみると、

 

 

 

「孤独」

仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま。

 

-デジタル大辞泉-

 

 

「孤高」

俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること。また、そのさま。

 

-デジタル大辞泉-

 

 

 

 

となりました。

どちらも「ひとり」であることには変わりないのですが、その「立ち位置」は双方とも違うことがわかります。

 

 

孤独が「受動的(あるいは受け身)」に対して

孤高が「能動的」に感じます。

 

 

ひとりという立場は変わらないのですが、その背景、または環境によってその表現が大いに変わるということになります。

 

 

先にも述べましたが「立ち位置」の違いは、今後の生活に大きく影響してくると思いますし、自分を動かしていく力に対して如実に反応していくということも考えられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも。

 

でもなんです。

 

 

いまはまだ、うまく言葉を使って説明することができないのです。

 

 

この「孤独」とも「孤高」とも違う、表現出来ない立ち位置、スタンス・ドットが自分が目指すところだと考えるようになりました。

 

 

どっち寄りかと言われれば「孤高」寄りだと思います。

「孤独」は、やはり良いものをまとっていないので、そこからは離れるべきだと考えています。

 

比較をすれば「孤高」のほうがいいということになるのですが、孤高でいることもちょっと極端かな、と思うのです。辞書を引いてみると「俗世間から離れて~」とあるので、現実世界にはそぐわない表現になるのではと思っているからです。

 

 

 

じゃあ、一般社会に適した「ひとり」という表現はないものだろうか?

 

 

「おひとりさま」は違うと思ってます。

 

 

スタンスとしては、孤高にある「志を守ること」に近いわけなので、その姿勢を引き継いだものがいい。かなり抽象的な話になってしまうのですが、こういった考えに近い表現がないものかな?とここ数日考えていました。

 

 

 

 

 

 

今回はここまでとします(汗)

 

また、考えが進んだときに、書き進めたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

早朝、上記のようなことを考えながら引いたカードが

 

 

 f:id:maruyamabase:20160330100648j:plain

 

 

No.19「復活」でした。

 

キーワードは「再生」「よみがえり」「回復」「復活」

 

 

 

 

 

秋山さんの言葉に「偉大で力にあふれた静寂」というのがありました。

ああそうか、というのが正直な感想ですが、静寂というのがひとつの大きなカギになるのかなと思いました。

 

 

 

 

 

 

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あの夏、わたしは大いなる旅に出ることを決めた。~ダンマの思い出①~

2015年、初夏。

 

 

わたしは、今後の生き方について考えていました。

 

 

 

 

 

 

 

その時点でのわたしは、ネガティブ感満載の人間でした。

 

悲観的な人間でしたし

劣等感を抱いていましたし

自己否定をしていましたし

無力感を感じていました。

 

そして何より、生きていくことに辛さを覚えていました。

 

 

 

 

この辛さは事あるごとにわたしに「わかってるよね?」という感じで目の前に現れてくるのですが、当時はそれに対する防御法や、自分自身が「定まっていなかった」ため、右に左に揺らされまくっていました。

 

 

 

 

 

 

その中で、当時にご近所にいたとある人のセッションを受けます。

 

それが森野御土日古(もりのおとひこ)さん。

 

 

彼のワークショップを受けたことがきっかけで、自分の「軸」を立てる必要があると感じたわたしは、彼のセッションを受けることになりました。

 

 

 

 

 

森野さんは現在千葉県在住。

昨年冬に、北海道を離れました。

以前から頻繁に交流をしていたというわけではないのですが、彼との出逢いは様々なところに波紋を及ぼし、わたしの現在の活動にも少なからず活かされています。

 

 

 

もう1年以上前のことなので記憶があいまいですが、彼の「軸を立てるセッション」を受けた際に、こう言われました。

 

 

 

 

 

「この時点で、軸は立てない方がいい」

 

 

 

 

 

つまりは、心身がその状態にまで来ていない、達していないと判断されたのです。

ショックではありませんでしたが、その説明に対しては「しょうがない」と半ば諦めの空気を感じていました。

 

 

 

が、その次に口から出た言葉は

 

 

 

「瞑想をやったらどうですか、それも合宿で」

 

 

 

瞑想?合宿?

 

 

 

 

よくよく話を聞くと、瞑想には色んな利点があり、それを継続して行うことで心身にプラスとなる効果を発揮するとのこと。いまはまだ準備も整っていない状態なので、瞑想を覚えるために合宿に参加してから、改めて軸を立てましょうということになりました。

 

 

 

 

 

進むためには瞑想が必要だ。

 

 

 

それは、わかった。

 

 

 

じゃあ、瞑想の合宿はどこでやってるの?

 

 

 

 

 

残念ながら、森野さんも行っている瞑想の合宿をしている場所は北海道にはなく、その時点では京都府もしくは千葉県でのみ行われていました。

 

 

 

 

瞑想の名称は「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれるものでした。

 

 ヴィパッサナー瞑想施設:ダンマーディッチャのHP

ヴィパッサナー瞑想: ダンマーディッチャ

 

 

結果、千葉県の施設がいちばん?近いと感じたため、森野さんのセッション後すぐに10日間の合宿を申し込みます。千葉県にある施設は「ダンマーディッチャ」と呼ばれ、周りが自然に囲まれた、騒音の入りにくい地域での瞑想が可能という説明でした。

 

ここではかんたんに書いていますが、こころの葛藤というか、覚悟というのは普通のものではありませんでした。結局「いまこのままではいけない」と感じていたから、この合宿の申し込みも行うことができたのだと思います。何もしない、成長しない状態で前に進んでも、悲しい結果を見るだけだし、最悪立ち直ることが出来ないかも。そう思っていたほどだったので、すがる想いと、制限された環境に飛び込む覚悟、表現は少々オーバーですが、力尽きるまで、それぐらいで音を上げるなら結果死んでしまってもしょうがない。それくらいの気持ちで申し込みの手続きをしていたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

航空券は、片道きっぷ。

 

 

 

 

 

帰りの手配は、何もしない状態で、わたしは北海道を離れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて降り立った成田空港。

 

不安満載で、ダンマーディッチャを目指します。

 

 

 

 

 

 

 

成田空港からJRに乗る前に必要最低限の連絡を済ませ、ここで改めて覚悟を決める。

 

それが、誰かにわかるわけでもない。

その重さを知っているのは、自分だけでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ダンマの思い出」と題したこのシリーズは、昨年夏に参加してきた「瞑想合宿」前後のことを書いていきます。内容は合宿で感じたことを中心に、その時の心境も整理していくことが出来ればと考えたためです。

 

もう、過去のことなのでそういったことはする必要はないのかもしれません。

しかしわたしの場合はあの日あの時強い気持ちを以て臨んだという背景があり、それが現在にも活きていると思っています。それはトラウマといったものとは違いますが、あの時の心境や考えを整理しておく必要があるのではと、少なからず感じていました。

 

このシリーズも不定期連載となりますが、このブログの内容の中心はやはり「自分のこと」を書いていくことだなと改めて実感しています。忘備録的なこともありますし、当時の考えや、不器用ではあるけれども「書く」「伝える」「届ける」ことを通して「整理」を進めていくことで、わたしの人格を形成し続けることが何より意味のあることだと書きながら改めて気づきました。自分で自分のことを書く場所を設けた以上は、出来る限りのことを書き続けていきたい。それが波紋となり、展開となって、わたしのところに還ってきてくれれば御の字だと「いま改めて」思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

今朝、瞑想後に引いたカードが

 

 

No.9「チャネリング」でした。

 

 

 

 

 

f:id:maruyamabase:20160915152301j:plain

 

キーワードは「導管」「媒介能力」「インスピレーションによる言葉や文字」

 

 

 

 

 

昨日もこのカードを引きましたが、このシリーズを書くにあたり、お知らせのような感じで出てきてくれたカードだと思いました。

 

 

 

 

時折、記事を書きながら「ああだった」「こうだった」と新たな気づきを得たり、大事なことを思い出すこともあります。書くという作業はシンプルですが、そこから生まれる大いなる効果は、いまのわたしに必要なエッセンスであると確信しています。

 

 

 

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