つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その44

【Series Herbie Hancock

 

 

Magic Windows / Herbie Hancock

 

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SRCS-9506

 

 

1.Magic Numer
2.Tonight's The Night
3.Everybody's Broke
4.Help Yourself
5.Satisfied With Love
6.The Twilight Clone

personel

all tracks
Herbie Hancock(EMU Polyphonic keyboard,Clavitar,Wave mini-Moog,Mini-Moog,Prpphet 5,Oberheim 8 voice,Yamaha CS-80,Arp Odyssey,Arp2600,Hohner Clavinet,Rhodes88,Suitcace Piano,Senheiser Vocoder,Lynn Drum Synth,Modified Apple 2plus Microcomputer,Piano)

track1
John Robinson(ds)
Freddie Washington(b)
Ray Parker,Jr.(gt) *only6
Sheila,Pete&Juan Escovede(perc)
Sylvester(lead vo&back vo)

track2
Ray Parker,Jr.(gt) *only6
Michael Brecker(ts)
Vicki Randle(lead vo)
Herbie Hancock(b)

track3
John Robinson(ds)
Louis Johnson(b)
George Johnson(gt)
Gavin Christopher(lead vo)

track4
James Gadson(ds)
Eddie Watkins(b)
Al McKay(gt)
Gavin Christopher(lead vo)

track5
Alphonse Mouzon(ds)
Freddie Washington(b)
Wah Wah Watson(gt)
Gavin Christopher(lead vo)

track6
Louis Johnson(b)
George Johnson(gt)
Adrian Belew(gt)
Paulinho Da Costa(perc)
Herbie Hancock(b)

1981年 サンフランシスコ録音


楽曲ごとに編成を変えるというこだわりが見えた作品。
ハービーが出す作品の指向が変わるたびに、戸惑いと驚きが入り混じったころの作品でもあります。


マイケル・ブレッカーが参加するなど時代にとっても注目すべきアルバムに変わりはないのですが、ボーカルが入っていないとラジオでは流れないという事情もあり、このあたりの時代では積極的にボーカルを組み込んでいます。
作品の行く先が次々と変わるため、何をしたいのかと思う人も当時はいたはず。
それとは裏返しに、この人は進むスピードがとてつもなく早い、としたら?
視点を変えることで、歴史や事実はがらっと変わることもある。
そういった作品は、ジャズの世界にもあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血がうまく回っておらず、頭痛薬を飲んでやっとこうどんをすすりました。

 

相変わらず顔色悪かったのですが、くしゃみをしたら何故か血が通いました(笑)

 

もう少し症状は残っていますが、快復に向かいそうです。

 

整理棚からひとつかみ。 インスト・サントラ編 その6

【Series Herbie Hancock

 

 

Death Wish / Herbie Hancock

 

 

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491981-2(輸入盤)

 

 

 

1.Death Wish(Main Title)
2.Joanna's Theme
3.Do A Thing
4.Paint Her Mouth
5.Rich Country
6.Suite Revenge:
 A.Striking Back
 B.Riverside park
 C.The Alley
 D.Last Stop
 E.8th Avenue Station
7.Ochoa Knose
8.Party People
9.Fill Your Hand

Music by Herbie Hancock

 

 

チャールズ・ブロンソンが出演した映画のサウンドトラック作品。

 

 

 

チャールズ・ブロンソンは日本ではなじみのある俳優さんですね。

 

かつてはスティーブ・マックィーンと映画で共演したこともある俳優です。


邦題は「狼よさらば」。
社会を風刺する様子を、音楽でも表現する。
演者と世界を壊さない、それを表現できる音楽と言うものは、実に奥深いと感じました。

 

 

 

 

午後から肩がバリバリ、頭がガンガン、そして顔色がピッコロ大魔王になるという事態に。少し寝て様子を見ましたが、回復まで時間がかかりそうなので、きょうは棚つかをお送りしました。

 

 

 

 

合計60点、総重量約7kgのがらくた整理。

先月から思わぬことが起きているため、自然と先延ばしになっていたことが幾つかありまして、それを解消するべくここ数日動いています。

 

 

 

前回のシーズン、シーズン5ではオークションによるガラクタ整理体験談を綴っていますが、こちらは現在も継続中。ジャズのCDの整理をコツコツと続けており、ある程度まとまったので何日かに分けて出品することができました。

 

出品したCDはジョン・コルトレーン(John Coltrane)」

先日このアーティストに関して記事を書いています。

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

 

コルトレーンの音源は、彼の師匠に当たる「マイルス・デイビス」には劣るものの、その作品数は結構あります。メジャーレーベルからでも60タイトル以上は出ていますし、海外のマイナーレーベルを含めると、100近い数字になってきます。また関連本も何冊か出ており、それらをまとめて出品することにしました。

 

 

 

 

今回の出品は本とCDを合わせ、合計60点。

重さにして、約7kgのがらくた整理になります。

 

体重で7kgはなかなか落ちませんが(汗)、がらくた整理で7kgは、あっという間ですよ(経験者は語る 笑)。

 

 

 

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 これが60点、計7kgのがらくた。

 

 

コルトレーンの作品はすべてを手放したわけではなく、手元に20タイトル近く残っています。これもいつか、手放すことになると思います。しかし今回は残ることになりました。

 

 

 

 

オークションやフリマ等で売りに出すのはいいのですが、設定や説明文など、面倒に感じてしまう作業はいくつかあります。それを嫌ってばかりいると、結局在庫が溜まります。そうなってしまったら、もう捨てるかネットで売りには出さず、実店舗へ持っていた方が建設的です。だって、これまで出そうとしてこなかったから、これから出すという保証がないから。

 

 

 

ぼくも以前は、この出品が面倒で仕方ありませんでした。商品ひとつひとつのコンディションを確認するのも、数がまとまっているとかなりの時間取られてしまいますし、写真撮影も光の加減とかありますので、意外に時間かかります。あと、良くあるのが電池切れ(笑)これだけでもうやる気が萎えます。そんな経験をしながらも、先延ばしの期間を短くすることができるようになりました。最初から「ぐっと」ではありません。少しずつです。それでも、先延ばしを止めたのであれば上出来だと思います。

 

 

 

気持ちを引き締めて、これまで愛でてきたCDを出品。

思い入れのある作品なので、ついつい説明が長くなりがち(汗)

 

そして、先ほどすべての出品が完了しました。

 

 

 

 

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見事にコルトレーンが並んでいます

 

 

これで、ひとつのやっかいなタスクを処理することができました。

その他書類の作成やメニューの公開に向けての追い込みなど、小忙しい毎日が続きます。

祖母の葬儀の後、時間差で疲労が来てしまったようですが、今でも涙を浮かべてしまいますが、最後の送り出しはとてもいいものだと思いましたし、その感覚を信じたいと思います。なのであまり涙をこぼすことなく、「やるべきこと」をしっかりと「やる」ことができるよう、明日からまた気を引き締めたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌は明日から冬季アジア大会です。

選手のみなさん、がんばってくださいねー!

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

なまけ者のさとり方 増補改訂新版 タデウス・ゴラス著 山川鉱矢・亜希子:訳 地湧社 (50)

投稿したはずの日記が反映されていないことが判明。はてさてどうなることやら。

現在はてなブログの「スマホ用の画面」と「パソコン用画面」に違いがあり、PC画面では掲載されている記事がスマホ用の画面では表示されていないという不具合が起きています。

 

この状況は今朝ブログをご覧になっている方からの知らせを受け、気づきました。

 

 

 

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 スマホの記事管理画面

 

 

 

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パソコンの管理画面

 

 

その報せを受けたときに、あれ?と思ったのです。

確か更新していたような気がしていたからです。

 

先にスマホ画面を見てみると、確かに2月14日の日記が表示されていません。

で、パソコンのブラウザから記事の管理を開いてみると、2月14日の日記が表示されています。どうやら不具合のようだと確認。

 

その方も仰っていたのですが、せっかく続けていたのにねとのお言葉をいただき、こちらもそうだったら仕方ないなと思っていたのですが、あべこべな状況となっていたため、現在の状況をお伝えしました。

 

 

 

その後調べてみると、この記事は予め下書き保存してあったもので、投稿日時を設定していたものでした。で、実際は手動で日記の投稿を行ったのですが、うまく反映されていないようです。

 

 

 

 

最悪、日記の更新は止まっても仕方ないよねーと思いつつも、どうにかならんかと試行錯誤中(汗)

 

その後はてなブログに問い合わせをしてみました。

 

 

 

 

さて、どうなることやら・・・

 

 

 

 

 

 

でも、ちょっと不思議に感じたことは、ここで仮に「途切れてしまった」としても、ああしょうがないな、で片づけることが出来そうだということ。

 

確かに毎日掲載していたので残念は残念なのですが、それはそれでしょうがないからね、と、ちょっと割り切れるようになっていました。

 

 

 

 

 

 

この問題の解決には、少し時間がかかるようです。

本音を言えばしっかり反映させたいのですが(笑)、ブログの詳細には詳しくないので、時間のあるときにでも技術的なことを含めてしっかりと検証したいと思います。

孫で、よかった。

そんなに日が経っていませんが、この時点で祖母に対しての気持ちを残しておこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月に入ってすぐ、叔父から連絡がありました。そのときの内容は、祖母の血圧がかなり下がり、その日の夜が峠であることを医師から告げられた、ということでした。このときは薬を投与したため血圧も安全圏内まで戻ったとのことで叔父夫婦は帰宅したとのことですが、今後は自然に任せたいという意向でした。だからもし時間があればという話を、ぼくにしてくれました。

 

そのとき実家は連絡が取れていなかったのでぼく宛に連絡をしたそうで、この件についてはぼくが窓口になりました。翌日以降の予定を取りやめ、各所に連絡した後にこの日はただ願いながら眠りにつきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電話があってもわかるようにしていたのですが、着信に気がつくことが出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝起床し、急いでスマホを見ると、着信がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は、午前6時前でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意を決して、電話をかけました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくコール音が鳴った後、叔父の奥さんが電話に出られました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いま、ばあちゃんと帰ってるよ」

 

 

 

 

 

 

 

祖母は、早朝にひとり旅立ちました。

 

99歳。さいごまで立派に生きた、とのことでした。

 

 

 

 

 

叔父の自宅に戻った後に予定などが決まるため、また後で連絡するという流れとなり、いったん電話は終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待ってて欲しかった。

 

でも、間に合わなかった。

 

 

 

 

 

悲しみをこらえながら実家に電話しました。

 

数回コール音が鳴ったあと、母親が電話口に出ました。

 

 

 

 

 

なんとか気丈に、しっかりと、物事を伝えようとしました。

 

伝えようとしたんです。

 

 

 

でも、無理でした。

 

電話口で、ことばにならないほどに、泣き崩れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母は、ただ「仕方ないでしょ」とぼくを諌めました。

母のほうは、もうずっと前に覚悟をしていたようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祖母は現在の宮城県にある亘理町の出身です。

おそらく祖父の仕事(大工でもしかも今でいう1級建築士)の関係で北海道に来たようです。

 

祖父母が北海道で生活した場所は、栗山町でした。

現在は北海道日本ハムファイターズの監督である栗山英樹さんが住居を構える場所でもあります。

 

 

 

 

 

ぼくが物心ついたときには、父方の祖父母は既に他界しており、ぼくのおじいちゃんとおばあちゃんはイコール母方の祖父母となりました。

 

小さい頃からよく栗山の家には連れて行かれており、よくそのまま置いてかれた(笑)そうです。ぼくの記憶では「置いてかないで~」と母親に向かって泣き叫んでいる記憶があるのですが、ばあちゃんが言うには「ばあちゃんと離れたくなくて泣いていた」とまったく逆の話しが出てきました。

 

そして、ぼくはよくばあちゃんにおんぶをせがんだそうです。

 

 

 

最後に見舞いに行った際に、ばあちゃんは嬉しそうに話していたのを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

じいちゃんが先に亡くなってから手術しなければならない事態となり、入院後は家に戻ることが実質不可能となってしまったため、入院生活がずっと続きました。その後ホームに入居しますが、その後また疾病を重ねてしまったため場所を転々とします。

 

つい最近の話しでしたが、食欲がなくなったという話を母から聞かされたことがありました。それを担当の看護師さんは「食の寿命」と表現しており、ひとつの境目の基準として仰っていたそうです。その後食欲は復活し、一時期は食べさせてもらっていたのですが、最後は自分で食事を口に運んでいただいていたそうです。このバイタリティには正直驚きました。しかし、病院のご飯はまずいそうで(笑)、いつも「まずい、まずい」と言っては全部たいらげていたとのことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出話をするときりがないのですが、きょうは最後にひとつだけ。

 

 

いつもばあちゃんに叱られたことがなかったぼくでしたが、一度だけ、諭された、または叱られた、もしくは諌められたことがありました。

 

それはまだ結婚前のことで、月に1度栗山の家に泊まりに行き、雑用を手伝っていたときがありました。

 

 

 

冬。

 

 

 

その冬は雪が多く降っており、車庫の上にもたくさん雪が積もっていました。

 

ぼくが泊りに行った際、じいちゃんが車庫の雪下ろしをしてほしいとのことだったので、車庫の屋根に上って雪下ろしをすることになりました。

 

 

雪は結構な高さまで積もっており、屋根に上ったのはいいのですが、雪を下ろすにも一苦労です。この時期結構ニュースになりますが、雪下ろし中の転落事故は足場がよくわからないまま雪下ろしを続けてしまい、結果転落してしまうというものが大半です。

 

命綱やヘルメットを装着するのが安全対策の基本ですが、そんな対策は当時何もせず(汗)今思うと冷や汗ものですが、こちらが四苦八苦しているのを知ってか知らずか、じいちゃんから矢継ぎ早に指示が飛びます。

 

 

 

 

これが、けっこう無茶ぶりなのです(大汗)

 

要するに「もっと下ろせ」。と。

 

 

 

 

「危ないから」

「もっと下ろせ」

 

 

 

このやりとりがエンドレスです(汗)

 

 

 

 

 

 

ついにぼくは、じいちゃんに歯向かいました。

 

怪我したら、元も子もありませんから。

 

 

 

 

 

この後の記憶はあまり残ってないのですが、その後じいちゃんと話すことはありませんでした。

 

 

 

 

しかし。

 

 

 

 

その一部始終を見ていたばあちゃんが、ぼくを叱りました。

 

その内容は忘れてしまいましたが、はっきりとばあちゃんがぼくを「やさしく叱った」ことだけは、しっかりと記憶に残っています。

 

 

 

 

いつもは口げんかしかしていないじいちゃんとばあちゃんでしたが、ばあちゃんの意外な一面にぼくはとても驚きました。そしてそれは、じいちゃんへの申し訳なさに変わりました。

 

 

 

 

 

 

結局、じいちゃんには面と向かって「ごめん」を言う機会もなく、じいちゃんが亡くなってしまいます。

 

ぼくはその「ごめん」を言うことが出来なかったこともあり、ひどく後悔していました。

 

 

 

 

その後、何かのタイミングで「じいちゃんわかってくれたかも」ということがあり、それ以上引き摺らないことにしていましたが、ばあちゃんが亡くなったことで、とても大事な思い出のひとつが呼び起されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葬儀は家族葬となったため、参加できる親族しか集まりませんでした。

 

それでも、祭壇はとても立派なものであり、ばあちゃんを送り出すには申し分のないものでした。

 

 

 

 

 

実は、ばあちゃんが亡くなった翌日、先に栗山町に逢いに行っていました。

 

 

 

天気は変わりやすく、途中「ホワイトアウト」現象も起こったため、かなり慎重に車を走らせました。

 

そして札幌から2時間以上の時間をかけて叔父宅に到着し、ひととおりの挨拶を済ませたあとに、ばあちゃんに逢いました。

 

 

 

 

 

 

ばあちゃんは、眠っているようでした。

 

この表情だけで、すべてが事足りました。

ばあちゃんはもう既にそこにはいないはずなのですが、その表情だけですべての説明というか、ばあちゃんの気持ちが伝わってくるようでした。

 

 

 

無論、ここでも、声をあげて泣きました。

 

でも、ふしぎと「逢いに行けなくてごめんね」ということばは、まったく出ませんでした。

 

感謝のことばしか出なかったのは、今思ってもふしぎなことです。

 

 

 

ばあちゃんの頭をそっと、優しく撫でました。

赤ちゃんがすやすやと眠るような表情をしていたのです。

今にも起きてきそうな佇まいでしたが、残念ながらからだは既に冷たくなっていました。

 

 

 

 

 

ばあちゃんに挨拶を済ませたあと、叔父夫婦にご飯をご馳走になりながら、最期のようすを聞かせてもらいました。また、今まで知らなかったばあちゃんの話しも、聞くことができました(どうやらばあちゃん、一時期たばこ吸っていたらしい。しかもキセルで 汗)。

 

 

 

当初、叔父はここまで来るのも大変だから来なくてもいいと言っていたのですが、たぶんぼくがいちばん取り乱すからと(汗)説明し、前もって弔問に訪れることを承諾してもらいました。

 

火葬場でも結局大泣きしてしまったのですが、先にばあちゃんとゆっくり話をすることができたと思っているので、結果としては良かった、と思うようにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葬儀から、一週間以上が経過したいま、改めてばあちゃんとの思い出を思い返すだけでも、未だに大粒の涙が溢れだします。

 

理由はぼくは大がつくくらいのばあちゃん子と自負しており(汗)、親孝行ならぬばあちゃん孝行は出来るだけしたいと考えていました。

 

 

 

その想いに到達点はないため、結局は後悔が多少残ることになりましたが、じいちゃんのときとは異なり、最後まで感謝のことばを伝えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばあちゃんの話をしたとき、いままですっかり忘れていたばあちゃんの家(思えばなぜかばあちゃん家と言っていた)の外観や内部がはっきりと想い出されます。ここにあれがあって、そこにこれがあってと、かなり細部まで今でもはっきりと目に浮かばせることができます。

 

 

 

大人になって車を持ち、それから幾度となく栗山の家に泊まりに行きました。

 

家に着くなり、ばあちゃんが「オロナミンC、冷蔵庫に入ってるぞ」と飲み物を勧めたことを、ふと思い出しました。

 

時折冷蔵庫に入れるのを忘れており、冷えていないオロナミンCを出されることもありましたが(笑)、ぼくにとってオロナミンCは、ばあちゃん家の味となっています。

 

 

 

会社が入っているビルの自販機にある、栄養ドリンクの中で、よくオロナミンCが売られており、よく購入していたことがありました(おごらされていたこともあったっけか)。

 

会社勤めをしていた頃、特に考えもせずオロナミンCを購入していましたが、血筋と言うか、何かがしっかりと受け継がれていたことに、笑いと、そして誇りのようなものを感じ取りました。そしてまた、オロナミンCを買うようになりました。ぼくにとってのエナジードリンクは、このオロナミンCだと、改めて肝に銘じたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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 思い出の味。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、ぼくの中での夢想(想像)のはなしをして終わりたいと思います。

 

 

どのタイミングでかは忘れてしまったのですが、ふとこんな感覚を覚えました。

 

 

 

 

 

それは、祖母が「上」からこちらを見ていること。

そして、葬儀とその後の親族での会話を見ながら、祭りのように楽しんでいること。

本人としては、一応事態を理解しているような感じです。

こちらに対して、特別何かを心配する様子は、まったくありませんでした。

 

 

 

 

そして、意外だったことは。

 

少なくともぼくが見た祖父母夫婦の光景は、口を開けば口論しかしていなかった。

だからだという訳ではないけれど、ばあちゃんをいじめるじいちゃんが許せない時期があった。だからじいちゃんに対して歯向かったという経緯があるのだけど、当のばあちゃんの気持ちは聴いていなかったし、じいちゃんの本音も知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

ぼくが見た(と思われる)光景は。

 

 

 

じいちゃんが、ばあちゃんを「迎えに来た」光景でした。

 

しかも「やっと来たか。ばかもんが」とか言ってる始末。

 

それに対しばあちゃんは、満面の笑顔で返していました。

 

 

 

そして、ふたり手をつなぎ、歩き始めた。

 

その、ふたりの後ろ姿を見ると、これまで見たことのない、最高の夫婦のカタチに見えました。

 

 

 

 

 

 

これを感じたぼくはひとこと。

 

じいちゃん、おいしいとこだけ持ってくな!

 

でした(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上で、先日不意に訪れた「別れ」について書き遺しました。

 

本来であれば、残す内容としてはそぐわないかもしれません。

それでも、残すことを決めました。残さないと、とも思いました。

 

 

 

 

 

 

今更の話しですが、あの時が「最後だったとしたら」という後悔というか、詰まる気持ちのようなものがあります。

 

数年前から、近しい人との別れを繰り返し経験しています。それは死別であったり、強制的に切り離される結果となったりと、様々です。

 

もし、あの日のあの会話が「最後」になるのだとわかっていたなら。

 

 

 

どのようなことばをかけるでしょうか。

どのようなことをしてあげたいと思うでしょうか。

 

改めて、「その人を想い、伝えていくこと」の大きさを、学びました。

整理棚からひとつかみ。 DVD編 その3

 

the world according to john coltrane

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COBY-91008

 

 


MASTER OF AMERICAN MUSIC SERIES

 

証言と映像で綴るジョン・コルトレーンのドキュメンタリー。
彼らの時代において、動画というのは結構貴重なものでした。
そういった部分でこの作品は貴重な資料となります。

 

監修・解説は:油井正一
解説・年表に:藤岡靖洋

 

以上のふたりが参加していることだけを見ても、この作品の位置がよくわかります。
時間にして60分程度のものではありますが、よくディスクから聴いていた演奏がこのようにして演っているんだというのを見ると、何だかライブハウスに足を運びたくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

服喪が明けたのですが、ここ数日体調が思わしくないです。

先週は空元気、空っぽに感じることが多かったのですが、今週に入ってからそれが表に出てきたようです。

 

いくつか作成しなければならない書類もあるため、長引かせることは出来ません。

更年期障害か!?と思うことがありますが、ここで落ち込むことにならぬよう、きほんをていねいにおこなうことを思い出したいと思います。

 

 

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

最後だとわかっていたなら ノーマ・コーネット・マレッタ作 佐川睦訳 サンクチュアリ出版 (43)

関羽 神になった「三国志」の英雄 渡邉義浩 筑摩選書 (44)

ガラクタ捨てれば自分が見える-風水整理術入門- カレン・キングストン 田村明子訳 小学館文庫 (45)

ガラクタ捨てれば未来がひらける-風水浄化術入門- カレン・キングストン 田村明子訳 小学館文庫 (46)

高倉健」という生き方 谷充代 新潮社 (47)

ソトコト 2016年11月号 日本の森で起きていること 木楽舎 (48)

ソトコト 2016年12月号 本と、本がつくる場所 木楽舎 (49)

ルーツの場所へ。~ダンマの思い出⑫~

ダンマーディッチャから社会、または世界に再び出たぼくは、まず東京在住の友人宅にやっかいになりました。

 

 

 

当時は梅雨明けということもあり、北海道民には辛い気候。

それに加えて、10日間もまともに動いていないことが影響し、動くことによる疲労もすぐさま溜まります。

 

電車の車窓から見える人工建造物を見ては「合宿が終わった」ことを実感していたぼくですが、その光景が段々と刺激になり、疲れにつながったと知るのはその日の夕方くらい。

 

 

 

結果、厄介になった友人宅で男子同士とは思えない豊富な会話を交わした中で、当初の予定よりも少し長めに滞在させてもらえることとなりました。

 

 

 

東京在住時にやったことは「どうやって北海道に帰るか」。

手段としては飛行機、電車、そしてフェリーがありますが、何を思ったか「ゆっくり帰ってもいい」と思いながら、ネットで情報を収集していました。

 

ダンマーディッチャに向かった際は片道切符だったので、帰りの行程は全く組んでおらず、その時の状況に合わせるという流れになっていたのです。

 

 

 

最初に、飛行機は除外しました。なぜか(笑)

次に検討したのが、電車で北海道に「入る」こと。

つまりは、津軽海峡をどうやって越えるかということに焦点を置いていました。

しかし、料金が意外にも高いことが判明。ちょっと即答で決めることは出来ないな・・・と思いつつ、電車での方法は一度保留としてフェリーでの航路を確認しました。

 

 

 

 

フェリーで北海道に入るためには、いずれかの場所に行く必要があります。それは

 

大洗港(茨城県)

仙台港(宮城県)

秋田港(秋田県)

八戸港(青森県)

 

 

などがあり、料金も電車よりはリーズナブルです。

しかし、フェリーによっては事前の予約が必要な場合があり、直前で決めることが難しい航路もあるため、ここでまた振るいにかけることに。

 

そこで思い立ったのが、ひとまず仙台まで北上し、仙台または青森からフェリーで北海道に入るというもの。

仙台-青森間も結構な距離はありますが、まずは北上してみようという気持ちが勝ち、高速バスで仙台市に行くことを決めました。

 

 

 

 

実は、宮城県は1度訪れたかった場所でもありました。

 

実は、先日亡くなった祖母が北海道に来る前は、仙台の海沿いに住んでいました。

その光景を少しでも見ることが出来たらな・・・と思い、仙台行きを決めました。

その他、仙台市にはもうひとつ行きたい場所がありました。

それがNHKの朝のテレビ小説で話題になった、マッサンこと竹鶴正孝が経営していた「ニッカウヰスキー」の宮城峡蒸留所があったのです。

 

 

 

これで仙台行きは決まり。ただ体力にまだ自信がないので、時間に余裕を持って動くことにします。東京滞在時に新たな着替えと薬局にて日用品の買い出し、各チケットの手配と時刻表を確認。その後せっかく東北まで行くのだからと、青森にいる大学時代の友人に連絡し、予定が合えばとの打診を行いました。

 

 

 

 

 

これで、北上の準備は整いました。

 

東京の友人との話も連日花が咲きました。なんだか咳を切ったような感じでの、お互いの近況や情報交換などを含めた、真なる交流と言った印象でした。

 

 

 

これらの手配をしながら、せっかく東京に来たこともあり、以下の場所に訪れています。

 

明治神宮と表参道

神田神保町の古書街(都バスを教えてもらい、バスで向かう。バス代が安い!)

・東京おもちゃ美術館(前回の日記に記載)

 

 

 

何だか観光旅行のような感じですが(汗)、ひとつの感覚に気がつきました。

 

 

それは「急ぐことを止めた」こと。

東京は各乗り物のダイヤが緻密で、かなり短時間で長距離の移動が可能といった印象を持っています。移動時間を短時間にすることで、目的地での活動時間を増やすことが可能になるのですが、思い切ってその部分を捨てました。単純に言えば

 

 

「ゆっくり行ってもいいじゃないか」

 

 

という考え、または気持ちになっていたのです。

 

 

 

 

 

それが果たして瞑想による変化か、はてまた恩恵か?

 

 

 

 

そんなことは一切考えず、東京の友人に別れを告げ、東京駅近くにある高速バス乗り場から、一路宮城県仙台市へ向けて、移動を開始したのでした。

 

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出し切れ! let it all out!

「吐き切っていない」

 

 

 

 

ここ数日の日記、そして読み終った本のことを考えていたら、そのようなことばが浮かんだ。

 

 

 

 

 

何を「吐き切って」いないのか?

 

それは無論、自分の持ち物であるが、それ以外にもあったのだということに気づかされた。

 

 

 

 

 

先日の記事で父のことを書いたとき、感情が昂ぶり大人気もなく泣いたことは書いた。

しばらくのあいだ、父のことでは泣くことはなかったので、この展開はほんとうに意外なことだと感じていた。

 

父の命日、そしてがらくた整理、呼吸に関する本、その他にもいろんなピースがひとつとなり、このようなことばを語りかけてきたのが、つい昨日のことだった。

 

 

 

 

 

それが

 

「吐き切りなさい」

 

「出し切りなさい」

 

 

だった。

 

 

 

呼吸の話しは前にも触れたが、実は吸うよりも吐くほうが大事だという見解には目から鱗が落ちるほどの驚きだった。息を吐ききらないと新しい酸素を吸入することはできず、からだの各機関も機能しないというのが理由だからだ。

 

想えば、呼吸には浅さ、そして深さがある。その用途も違うと感じている。

 

 

 

過去に呼吸のことを指摘されたとき、呼吸の感覚を長くしていこうとトレーニングを積んでいた。鼻から吸って口から吐くというものだが、それに連動するかのように本来のペースを取り戻していった。

 

 

 

 

昨年に「安定」を迎えた。がらくたを整理した先の、到達点だ。

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

それがゴールではないと気持ちを引き締めていたが、そこから更に高みに、そして深みに向かうための、「ベースキャンプ」に到達していたのだとわかった。

 

何となく、視点が自然と広範囲になった感覚を持った。

 

 

 

 

これからは、吐きだせるだけ吐き出していこう。

 

がらくたも、自分の気持ちも。

 

 

 

これまでは、両方とも「出そうとしなかった」。

ぐっと堪え、「出すことを諦めていた」。

その言動に対して周りがどのような反応をするかはわからないが、自分がやっていくことの本当の効果、そして恩恵と言うものを、実証していこう。

 

ガチガチの覚悟ではない。

軽やかな覚悟だ。

 

 

 

 

つくづく、自分自身が面倒臭い人間だと思う。

他人よりも、ひとつの出来事に対して必要以上のものを拾ってしまうようだ。

それをコントロールする、というのは表現としてそぐわないかもしれないが、入ってくるものに対するアクションをもっと変化させていくために、この方法をとっていく。

 

 

 

今年の目標は「吐き切る」。

それが、じぶんを変えるための、次の大いなる展開だと信じて。

 

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