今週末の3月11日、東日本大震災から7年目の節目を迎えます。
札幌駅前通地下歩行空間(通称:チ・カ・ホ)では、前日の3月10日、そして3月11日と連続でシンポジウムを開催します。
場所は北3条交差点広場(西側)。
お時間のある方は、どうぞお立ち寄りください。
続きを読むきょうは晴れたり雪が降ったりと忙しい天気でした。
しかし、気温は比較的高かったため、雪が降っても「もうちょっと辛抱すれば」という気持ちが余計に高まるばかりです。雪で覆われているところはだんだんと少なくなってきましたし、民家の屋根に積もっている積雪も、見るからに減ってきています。
続きを読む【Series Sideman of John Coltrane】
Live In New York / Miles Davis and John Coltrane
32JDB133 Bandstand盤
1.Bye,Bye,Black Bird
2.Four
3.In Never Entered My Mind
4.Walkin'
5.Milestones
6.So What
personnel
1,2,4,5
Miles Davis(tp)
John Coltrane(ts)
Bill Evans(p)
Paul Chambers(b)
Philly Joe Jones(ds)
Rec:May 17,1958
6
Miles Davis(tp)
John Coltrane(ts)
Wynton Kelly(p)
Paul Chambers(b)
Jimmy Cobb(ds)
Rec: 1958
3
Miles Davis(tp)
Red Garland(p)
paul Chambers(b)
Art taylor(ds)
Rec:July 13,1957
※ライナーをもとに記載
ジャズの帝王と呼ばれたマイルス・デイビス。
彼の音源は本当に多く、スタジオ録音の他にライブ録音、そしてブート(海賊盤)と多岐多彩にわたる彼の作品は、年月を重ねるごとに新発見をもって迎えられます。
その中に「未発表作品」というものも含まれており、その音源が明るみに出るとファンはたいそう喜ぶのです。
これもその中の1枚で、注目はピアノに御大「ビル・エバンス」が加わっていること。
ジャズピアノと言えばこの人というくらい有名なエバンスが加わった演奏は、実はマイルスの音源では珍しいそうです。
マイルスのバンドに在籍していたのはほんの数か月だったことから、1曲でも多くの曲を耳に出来ることは、それこそ至福といっていいのだと思います。
本作はライブ録音ながらマイルスの代表曲を網羅しており、拍手をもって迎えることができます。
彼のトランペットは「求道者」と評してもいいほどのテクニックと音を携えており、玄人のみならず初心者でもジャズの魅力にひきこんでくれること、間違いないと思っています。
WBC、日本勝利!ひとまずよかったです。
きょうから行われるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対キューバ戦をテレビで鑑賞しているのですが、これがまたハラハラドキドキします(汗)。
北海道日本ハムファイターズの中田翔選手がまさかの盗塁を成功させたり、東京ヤクルトスワローズの山田哲人選手が打った打球がホームランではなく2ベースヒットと判定されたりと、何かと落ち着かない状況が続いていましたが、比較的リードをしているのでやっと少し安心してみることが出来ています。
この試合が行われる前に流れたニュースを見ていると、高校の筆記試験が行われたといったニュースが流れていました。ぼく自身の思い出を話すと、確か受験日の朝、かつ丼を食べた記憶が(笑)。これもささやかなゲン担ぎだったのですが、胃がもたれることなく受験を済ませ、願書を出した高校に無事入学しました。
世間と言うか、世の中のスケジュールは春というか、確実に新年度に向かって進んでいるんだなというのを改めて実感。こういった時期にはこれまで続けてきたことが収束に向かうこともありますし、新しく芽吹くということもあります。何かしらの大きな変化や流れが否応なしに起こるので、急激な忙しさ等に見舞われる可能性も高くなると思います。
昨日は歩いた、という実感があり、きょうもいい天気であったため、近所にある北海道神宮を訪れることに。現在特定の宗派を信仰はしていませんが、神道というのは一般の宗教にあるような「頂点」となる存在を信仰する必要がないのが特徴。八百万の神という存在(のようなもの)に対し、純粋に感謝を述べるにとどめるというのが今の時代には憎らしいほどすがすがしいものだと感じています(それでも多少の御願い事はしてしまいます)。
祖母が亡くなってから、1週間ほどしてから参拝しようと考えていたものの、結局1ヶ月以上の時間が経過していました。それも仕方ないことだし、いまこうやって行こうと思ったということで良しとしようと思いつつ、アスファルトとツルツル路面の不安定な道を歩いてきました。
車道は雪がすっかり融けてしまい、アスファルトが顔を出しているいっぽうで、歩道はまだまだ厚い雪(というか氷)に覆われている所も多く、中には雪解け水が水たまりをつくっている場所もあるため、足元に注意しながら歩かなくてはなりません。滑り止めの砂も撒いてはあるものの、滑りやすく不安定な路面であるため、車の行き来に注意しながら歩きました。
神宮の境内、参道等はもう少しで地面が見えるかというくらい。木々の周りはその熱で徐々に雪が無くなってきていました。きょうは風が多少吹いており、肌寒さを感じた1日ではありましたが、その空気を感じることに心地よさを感じていました。
もうすぐ。(本殿のほうを向いて撮影しています)
その後、距離を伸ばしてスーパーへ買い物に。
足取りは細かくなってしまいますが、ゆっくり歩くことに集中して歩みを進めました。
よく車で通る道も、歩いて通ってみると色んな発見があります。
新しいマンション、新しいお店、この家が空家だったりなど、知らなかったことが次々と出てきます。一定の速度で同じところを確認していたとしてもわからなかったことが、ペースを変えることによって目につくということは意外にもあるもの。こういった視点を忘れないようにしようと改めて感じた瞬間でもありました。
そしてスーパーで買い物を済ませ、両手に袋を下げて無事帰宅。
不安定な路面であったため、昨日とは違った疲れを感じました。なんだかエクササイズをしているような気分でした。
最後はひといきの珈琲。
先日SNSで見かけた、近所にある「りたる珈琲」のスプリングブレンドを淹れました。
ジップバックに新鮮な豆が入っています。カウンターで注文後に密封してくれるのが嬉しいです。
この季節の豆は浅煎りなのですが、すっきりとして、それでいてチョコレートのようないいアロマが薫ります。札幌の珈琲専門店は比較的深めの煎りが多いのですが、これは真逆を行くもので、こういったアクセントもいいなと思いました。店内も雰囲気がとてもいいので、また寄ろうと思います。
文書作成の合間をぬって外出したことが、かえっていい刺激になりました。
普段見慣れている光景も、視点を変えることでまったく違う光景を見せてくれるんだということを改めて学んだ1日でした。
きょうは歩き疲れました。
札幌市営地下鉄大通駅から札幌駅までの間を往復して歩いてしまいました。
しまいました、という理由は、なんといっても「春」が近づいているからです。
札幌圏は先週最高気温が10度に届くかといった暖かさが続き、積雪が一気に減りました(ということは、屋根からの落雪などもあるので注意が必要なのですが)。バス路線などの大きな道路ではアスファルトが顔を出し始めましたし、集中的に夜中の排雪が入ったため、歩道と道路との間にあった小高い山(または壁)はすっかりその姿を消してしまいました。まだ一部の地域では残っているようですが、これも今後の天気次第で姿を消していくことと思います。
きょうの札幌は決して温かいとは言えない気温ではあったものの、風は微風程度。地下鉄から降車して銀行に寄った際、銀行内がえらい暑かったので、クールダウンがてら札幌駅まで歩くことにしたのですが、これが何とも気持ちいい、心地いいウォーキングとなりました。
空も雲ひとつない好天気で、ひんやりと、凛とした空気がからだの表面に触れます。こういった寒さもたまにはいいなぁと思いながら、少しだけうきうきして逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと味わって歩きました。
雪が融け、滑り止めの砂が散乱しています。春はすぐそこまで来ています。
よくよく周りを見てみても、服装は冬用の重装備、というのはごくわずかで、誰もが「春はもうすぐそこ」といった感じの、少し軽めの服装になっていたのも印象的。社会が春を待ちわびている、というのを、何だか実感した時間でした。
札幌駅周辺で所用を済ませた後に、恒例となっているJRタワー展望台でデスクワーク。
ひととおり終えた後に街の様子を写真に撮ってみました。
なんだか、気持ちはもう、春です。
この後お昼をいただいたのですが、きょうは珍しいところに行ってきました。
それは「献血センター」。
札幌市には献血を受け付ける施設がいくつかあるのですが、大通りにある施設は大通公園近くのビルに移転したことを思い出しまして、せっかくだから献血してこよう、ということになったのでした。
地下歩行空間(チカホ)直結です。
ここで献血のかんたんな流れを説明しますと
となっていました。
ぼくの場合、前回の献血が何と12年前だったことが判明(笑)。その頃とは確認する内容が格段に増えており、それだけ世情が変わったのだなと実感しました。
特に変わったな、というところを感じたのが問診前の条件確認のところで、HIVに関することはもちろん、特定の薬の接種や海外渡航歴などを申告する箇所が増えたこと。担当の看護師さんも仰っていましたが、以前の倍ほど、聞かなくてはならない内容が増えたそうです。
そんなこんなで
問診⇒異常なし
血圧⇒異常なし(札幌駅から歩いてきたため、多少血圧に変動があったものの、許容範囲内)
ヘモグロビン⇒異常なし
となり(ここで結構安心している)、晴れて採血ということになりました。
大通にある献血センターは1フロアすべてがこの施設になっており、窮屈さを感じさせません。またロッカーもあるため、かなり身軽になることもできます。
休憩室内は飲み物はもちろん、お菓子程度の食べ物、そして雑誌や新聞、コミック等が置いてあります(そんなにたくさんではありません)。またキッズスペースもあり、きょう伺った際には夫婦で訪れているかたもいらっしゃったので、使い勝手の良さを感じていました。
採血は、じつは結構「あっという間」でした。
なんだかんだ言って、トータル10分くらいでしょうか。
こちらが「もう終わったんですか?」と聞いてしまうくらいの早さです。
そこそこの時間取られると思っていたので、拍子抜けです(汗)
お陰様で、その後の休憩時間は非常にゆっくりと過ごさせていただきました。
採血が終わって休憩していると、カードに次の採決はいつごろから可能としっかり印字されています。ぼくの場合次は5月のゴールデンウィーク明けになるのですが、実はけっこうリピーターの方がいらっしゃることにびっくり。採血の後には粗品をいただいた(今回は歯磨き粉)のですが、リピーターのかたはそれ以外の粗品をもらっているようでした(スタンプカードも配布されていましたので、そちらの関係かもしれません)。
結局1時間半ほど滞在し、その場を後にしました。
献血センターの窓から。
以前であれば、興味がない、という表現よりも「忙しくて行く暇がない」というように考えていたかもしれません。それが今は、どこかで余裕でもできたのでしょうか、献血にでも行ってみよう、という心境に変わっていたのです。どれくらい時間がかかるのかといった小さな疑問はありましたが、あまりせかせかしなくなりました。自身の行動の後を客観的に見てこんなことを言うのはちょっとおかしいのですが、やはり落ち着いてきたんじゃないかと思います。それは単純に「落ち着いた」という表現にとどまらず、「地に足がついた」という印象も加わっています。実際はまだまだかもしれませんが、この人(じぶんのこと)にとっては、とっても大きな変化であり、変革であるように思います。時間の使い方や予定の立て方、気持ちの持ち方などが、これまでとは何だか違う、という感覚を、ちょっとした行動を感じては思うようになってきました。
きょうはこれまでの運動不足を解消するかの如く歩きまくりました。
その甲斐あってか、つい最近まで感じていた「首と肩のコリ」がすっかり抜けていたことに気がつきました。何がどうなってこうなったのかはわかりませんが(笑)、結果として今日の活動は、いい方違えになったんではないだろうか、と思っています。
またこれから数日、書類の作成が続きます。
適度に運動して、適度以上にデスクワークを頑張らねばと思った、春が待ち遠しく感じた1日でした。
【Series Sideman of John Coltrane】
Thelonious Himself / Thelonious Monk
VICJ-2116
Riverside12235
1.April In Paris
2.(I Don't Stand)A Ghost Of A Chance With You
3.Functional
4.I'm Getting Sentimental Over You
5.I Should Care
6.'Round Midnight
7.All Alone
8.Monk's Mood
9.'Round Midnight(in progress) *(CDのみのボーナストラック)
personel
Thelonious Monk(p)
John Coltrane(ts)
Wilbur Ware(b)
セロニアス・モンクは個性的なピアニストとして有名で、数々の歴史的セッションを残した人でもあります。
そして珍しいんのがこのトリオ編成の中身で、通常は
ピアノ・ドラム・ベース
なのですが、この作品では
ピアノ・サックス・ベース
となっていて、これはこの時代ではかなりな常識破りの編成になっています。
プレステッジというレーベルのチャレンジ精神なども加わってか、今回のような興味深い編成になったのかな?と感じました。
肝心のプレイはというと。
やはりコルトレーン、じゃなく、モンクのピアノに注目したいところ。
すごい繊細なのです。そして彼へのイメージをある意味「決定づける」プレイをしてくれていて、嬉しい驚きをもたらしてくれます。
モンクのプレイは品がないといった感覚を持っていた人が当時はいたそうですが、それを見事に打ち破ったのが今作。CDのみのボーナスは20分を超える楽曲となっているため、これまた聴きごたえがあります。
ぼくが「ギター」という楽器で音楽を聴くようになってから、ひとつの大きな驚きの出逢いがありました。
それは、ギター奏者の代表格でもある「押尾コータロー」さんとの出逢い。
実際には間近でその演奏を聴いた、というのが正しい表現なのですが、その時の衝撃は
「この世のものとは思えない演奏」
と表現するしかないものでした。
ぼくが押尾コータローの演奏と出逢ったのは、現在は無くなってしまったものの、当時札幌の音楽イベントとして開催されていた「札幌百歌(さっぽろひゃっか)」。このイベントは数日間、複数の会場で催され、様々なアーティストが参加していました。
当時ぼくは札幌ファクトリーホール(だったと思う)でこのイベントに参加していたのですが、たまたま違う会場で出場予定の押尾さんが、なんと飛び入り参加したのです。
その時の押尾さんは、デビュー前(厳密に言うとデビューは決まっていた)だったらしく、「是非ぼくのことを知って欲しい」という気持ち・姿勢から、他の会場でも演奏して回っていたそうです。そのときに演奏してくれた曲は、デビューアルバムに収められている曲で、当時押尾さんの代名詞とも言える曲と、戦場のメリークリスマスでした。
その2曲とも、まさかギター1本で演奏しているとは思えませんでした。
その演奏で一瞬にして虜になり、数か月後に発売されたデビューアルバムを、幾度となく聴き込んだのは、懐かしい想い出です。
押尾コータローの登場は、音楽界に相当な衝撃を生んだと思います。
かなり昔でいえば、ブルースを生んだロバート・ジョンソンですら、そのギターテクに誰もが息を飲み、惚れ込んだと言います。それほど、ギターテクでの表現と言うのは、技術的な壁があるように感じていました。
押尾さんの登場から、しばらく経過したのち。
日本ではなく、海外で、彼をほうふつとさせるテクニックの持ち主が表れました。
そのひとの名前を
女性のギタリストなのですが、この子(当時)のテクニックが、また凄いのです。押尾さんとは違い、完全エネルギーで押し切るといったイメージです。しかし、パワーだけではなく、指捌きも相当なものです。彼女のデビューアルバムも、相当聴き込みました。押尾さんとカーキの演奏は、まさしく「扉を開ける」ものだったと感じています。
こんなことを書こうと思ったのは、カーキのライブ映像を見たことがきっかけです。
プレイスタイルは押尾さんとそう変わらないのですが、表情のドヤ顔が凄い(笑)
それだけ、プレイに自信をもっているということなのだと思います。
事実、彼女はギターだけではなく、様々な楽器にも挑戦しています。そしてついにはヴォーカルも務め、アルバムに収録しています。彼女の考えでは「ヴォーカルも音のひとつ」として捉えているようで、歌詞はあまり重視していないようです。そんなことよりもすごいのは、ひとりでなんでもやってしまうということ。もちろんサポートするメンバーはいますが、日本で言えば山下達郎さんのような、海外で言えばパット・メセニーの「オーケストリオン」のようなことを、彼らよりも数段若い彼女がやっているというのは、何だか革新が進んでいるようにも思えます。ひょっとしたらこれは天性の才能と言ってもいいのかもしれませんが、幼少から慣れ親しんできたことが、ここまで昇華したというとても良い実例のひとつになると思います。
時代が進むにつれ、楽器による表現方法は多彩になってきました。
これから、どんな楽器で、どんな演奏を聴かせてくれるアーティストが生まれるのか。
楽しみでしかたありませんね。
ニュースでは卒業を伝える内容がここ数日流れています。
その中では、最後の卒業式など、閉校や募集終了に伴う最後の生徒を送り出すといった、時代の流れを映し出す光景が出てきます。その内容はなんとも寂しいのものですが、その志を受け継いでいく人たちは、多いことと思います。
そんな中で、いろんな物事を対象に「卒業」という語句を用いるひとがいます。
ここで本来の「卒業」を辞書で調べてみると
卒業(そつぎょう)は、学校の規定の全課程を修了すること。(Wiki)
とあります。
つまりは、「必要なことはすべてやり切りました」
という意味合いになると思います。
しかしながら、ぼくの周りで「卒業」を使う人は
「結婚を卒業した」
「●●のサポートから卒業した」
「○○に参加することを卒業した」
など、いろんな物事に当てはめています。
意味合いはなんとなくわかるのですが、使い方としてはなんとなく現代的。
だからといって、それが「正しい」使い方か?と言われれば、クエスチョンマークがつくのです。
卒業という語句を用いている以上、「そこには戻らない」「戻る必要がない」という意味になります。なぜなら、そこで必要なことは「すべて学んだから」。しかしながらそういった本来の意味すら「理解」せず、安易に、時代の波に乗っているかのような、安直な使い方をしているひとが目立ってきています。
しかも、そういった使いかたをする人に限って、「スピリチュアル」に依存している人たち。「天の采配」とか「サムシンググレートの思し召し」などと言っては、自身の行動を肯定します(絶対に否定しません)。
そして面倒くさいのが、卒業と言っておきながら、また同じようなことを始めるということ。それも自己都合の解釈で「必要なこと」と言い切ります。ここまで来ると、何が基準なのかはわからなくなります。それは結局はお金であったり、寂しさを埋めてくれる人であったりと、自分の信念を「かんたんに」捻じ曲げる要因があります。
こういったひとたちをわからせることはできないのか?と過去、考えたことがあります。
それも、かなり真剣に。
いろいろ手を尽くしたこともありましたが、そのほとんどは見込みなしでした。
返ってくる返事の内容は
「あなたはそう想っていればいい。わたしはこの道を進むから」
と言い放ち、周りの声に耳を傾けず、自分に素直に生きているんだ!というさまを見せつけていました。
この姿を見て、愕然としたこともあります。無力感を感じたこともあります。
否定されたと感じたこともあり、かなりささくれ立ちましたし、苛立ちました。
しかし、そのよう無責任(だと言い切ります)な振る舞いを見せられたからこそ、ぼくは逆に「火」をつけられました。その具体的な行動のひとつが、がらくた整理による「革新」だと信じています。
いまのぼくの姿を、卒業と言うことばを多用したひとたちが見たとしても。
おそらく、何も感じることはないかもしれませんし、自分の非を認めないかもしれません。
かえって「ありがとう」という、的外れなことばがかえってくるかも。
宗教やスピリチュアルに限らず、いろんなものごとに「妄信」してしまうひとは、今の時代にはたくさんいます。自分が「正しい」「信じるに値する」といったん決めてしまうと、自分の「過ち」の可能性を、見向きもしようとしません。結果、相手を責めます。
自分自身はそれでいいかもしれません。今のうちは。
その行動の展開がもたらす「歪み」をたとえ知ったとしても、自分の行動によるものだと理解せずに神だとかいろんな存在を持ち出しては、その存在がもたらしたことだと責任転嫁するでしょう。
こういった姿を見てきたから、ぼくは個人で進むことに決めましたし、個人で鍛錬することに決めました。
仏、諸天善神、弥勒さま、バガヴァンやいろんな組織の人、指導者などを最高位として信仰するのは自由です。が、それが正しいかどうかはまったく別の話です。それをわかることがないと、「無自覚の悪意」によってあらゆるものを遠ざけることになるでしょう。それを自覚するタイミングは決して「自分以外の誰か」によってもたらされたタイミングではありません。それをわかることがあればいいのにな、と、想っています。