つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

変わったと感じている話。

勤務後に外食し、先ほど戻ってきました。

外食の機会は少なく、現状伺うお店は決まってしまっている状態です。

勢いとしては「全部のお店に顔を出したい」のですが、二の足を踏んでしまっています。

 

ひとりでダメなら、ふたりで行こうや。

先ほどまでいたお店で、そのようなことばをかけていただきました。

 

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八雲のお酒と、恵みの話。

函館出張時代(とは言ってもほんの数か月前)、よく朝のコンビニで北海道新聞を購入して読んでいました。

 

 

時期としては八雲町に面接に行くことが決まっていたのですが、その時の記事に

 

「八雲町の日本酒」

 

というものがありました。

 

 

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ぶれててごめんなさい。

 

 

へぇー。そんなのあるんだ。

面接後に買うことが出来ればいいな。と思っていたのですが、その時は結局購入できませんでした(笑)

 

はい。特急の時間があったため、買いに行く余裕はありませんでした。役場からダッシュでJR駅に向かったのを憶えています。

 

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やり直しからにじみ出てくる面倒くささなどのネガティブについての話。

移住をしたことを報せる文面を作成し、印刷して封入した時点で自宅の電話番号に誤りがあったことが発覚。

 

はい。訂正して刷り直し(笑)

 

 

このほかきょうは仕事が終わってからクリーニング店に行ったのですが、Webで営業時間を確認したものの現地に着きますと閉店になっていました・・・

 

 

なんでしょう、この「きょうは何をしてもダメだ感」は(笑)

 

こんな日は、早めに寝るのに限ります。

 

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整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その146

【Series John Coltrane

The Believer / John Coltrane

 

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VICJ-2151


1.The Bliever
2.Nakatini Serenade
3.Do I Love You Because You're Beautiful


parsonel

John Coltrane(ts)
Donald Byrd(tp) *1.2
Freddie Hubbard(tp) *3
Red Garland(p)
Paul Chambers(b)
Louis Hayes(ds) *1.2
Art Taylor(ds) *3


recorded

1.2:1958年1月10日
3 :1958年12月26日

 


収録の6年後、1964年にリリースされたアルバムで、ひとつの収録日に何曲か録音したものをカッティング、それぞれ違うアルバムに振り分けられています。
6年後に発表ということは、当時のコルトレーンの人気にあやかってという感じ鳴るのでしょうか。
トランペットにドナルド・バード、そしてフレディ・ハバードを擁したクィンテット編成での録音は、豪華さもさることながら、後追いながらもコルトレーンの実力と、それを認めた周りの影響を強く感じることが出来る1枚になっています。

 

重さと軽さ、それにかかわる意識の話。

 札幌居住時にお世話になっていた整体(しかも全然痛くない)で施術を受けているときに、こんな話を院長さんがしてくれました。

 

 

それは

「今の歌の歌詞には【愛】は使われない。逆に【好き】が使われている」

というものです。

 

院長さんの話をざっくりと書きますと、現代社会では「愛」はどうやら「重い」ものとして受け止められがちだというのです。逆に「好き」だと「ライト(何故か軽いではない)」なため、使いやすいとのことでした。

 

 

 

確かに。

 

最近聞いていないし、自分もそうだったかも。

 

この「重さ」と「軽さ」の価値観が、以前とは違ってきているように思いました。

 

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絶不調のタイミングでとうとうやらかし、自分のちっちゃさを痛感した話。

遅めのゴールデンウィークは、札幌に滞在していました。

 

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元札幌市民(今年3月まで)なのです。

 

そのため、札幌に宿をとるというのが何とも不思議に感じました。

今回は実家に寄らず、友人宅とホテルにお邪魔しました。ありがとうございました。

 

 

用事は車のメンテや買い物、人に逢うなど、細かく決めていましたが、アラフォーになりますとだんだん出来ることも出来なくなります。体力気力の問題もあり、ほんの少やりたいことをこぼして帰ってきました。

 

 

当たり前の話なのですが、札幌で買い物をすれば、ほぼなんでも揃います。

しかし八雲町ではそうはいきません。

だからといって、生活できない訳ではありません。

どうしても必要なものが出てきた場合は、函館なり札幌なり買いに行けばいいのだ。

何でもあることの裕福さといいますか、贅沢さを感じていました。

 

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アタリマエの中に自分勝手が潜んでいないか考えてみた話。

昨日、黒松内町の道の駅での出来事。



その日ニセコのカリンパニへ向かうために車を走らせており、昼食を黒松内町の道の駅でいただきました。

以前もこちらのピザを利用したことがあり、今回も食べたいなと考えていたのですが、まさかまさかの定休日に当たり食することができず。

残念さを発揮してしまいました。



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仕方なく他の食べ物に変更し、完食。

その最中でこんな声が聞こえてきました。


それは

「なんでこの道の駅の外にはゴミ箱がないんだ!困るじゃないか」

というもの。


聞き耳を立ててみたところ、会話は噛み合っておらず。結局はクレームをつけた客が「役場に言うわ」と一言言ってその場を後にしました。

その客の言い分としては、ゴミを捨てたいときに捨てられないのはおかしい。こういった公共の場所にゴミ箱を設置しなくてどうする!といったもの。屋内にはゴミ箱はあるものの、外に設置されていないことに不満の様子でした。


この一連の会話を聴いていて、感じることと考えることがありましたので、書き残しておこうと思います。



かんたんにですが調べてみたところ、道の駅のゴミ箱の設置に関する取り決めは見当たらず、現状ゴミ箱を置いている駅と置いていない駅があるようです。


ゴミ箱の設置がどうやら義務ではないところをみますと、それぞれに事情があるのかなと思いますが、利用者はそんなの知ったことではない。車内にあるゴミが捨てられないことに対するストレスが溜まるため、それを解消できるはずの場所で希望が叶わない場合、それはクレームを生むほどのフラストレーションに変わります。


では何故ゴミ箱を置いていないのか?
記憶を元に考えてみますと、見えてきたのはコストの問題でした。

一言で言えば、ゴミを処理してもらうにはお金がかかります。それは自分の住まいでも、どこか別の場所で出したとしてもです。

それぐらいなんとかならんのか~という声が聞こえてきそうですが、塵も積もれば山となるように、ごみ処理の費用も同じ原理になっています。ましてやゴミ箱にゴミを入れる人は不特定多数。そしてどれくらいのゴミが出るかなど、推測できたものではありません。

結果どうなるか。

ゴミの処理に行政の予算をかなり費やすことになります。

それは何を意味するか。

行政の財政を圧迫させることにつながります。

そこからどんなことが予測されるか。

実例としてはないかもしれませんが、処理費用(税金含め)の値上げなどが決議されるかもしれません。

そうなってくると、利用者としては納得のいかない事態を招くことになりかねません。
それらの費用を含めて価格設定をすればいいだけの話だろという意見もあるようですが、それだけで解決するわけではないと思います。

苦渋の決断。というのが、表現としては適していると思うのですが、やむにやまれず、ゴミ箱の設置を見送った(または限定的にした)のではないかと推察します。

この辺りの事情は各地によって様々だと思います。なのでひとくくりにするのは難しい問題かなと感じました。



で。


この会話でぼくがそのクレーム客に感じたことは、「当たり前にあると思っていることの危うさ」というものでした。


そのアタリマエというのも、その人個人の価値観であり、それがグローバルスタンダードに直結するとは限りません。自分が考えていることこそが正しいのだと思い込んで行動してしまいますと、引っ込みのつかないことになります。

その正しさはどの場所に立って言っているものか。
何事か言う自由や権利があったとしても、その主張が何処かに偏ってしまうならば、それは残念ながら偽りの正しさであり、偽りの正義であると言えるのではないでしょうか。

コンビニのゴミ箱も、外にあったものがなくなっていってます。一部は店内に設置してあるところもありますよね。

捨てるという行為にもカネはかかる。
得るという行為にもカネはかかる。
その事実を認知していくことが重要なのだなと感じました。





そして、ニセコから札幌に向かう道すがら。

雲に隠れていた羊蹄山が、その姿を少しだけ見せてくれました。


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自然には、人間のアタリマエは通用しない。
事柄には、それぞれの背景や理由があることを知っていかなくてはならないと感じた1日でした。

相手のアクションに対して必ず反応しなければならない。というのは、ちょっとした枠なんじゃないかという話。

連休中の体調不良なときになんやかんやとシビアな出来事が起きており、それに対してどうしたものかとずっと思案しています。

 

 

 

このときに決めていたことは、「体調が整わないときにリアクションをしてしまうと、かえって尾を引く」ということ。その理由はどこかで感情的になってしまうか、または自分の意思ではないことばが混ざってしまうかです。

 

つまりは返信の一語一句に「気持ちを込めることが出来ているか」という判断が甘くなってしまう可能性があったからです。

 

そこまでの結論を導くのにも時間をかけた、というよりかは、時間がかかりました。

それは何故だろうと考えたとき、ひとつの「~しなければならない」という、呪縛のようなものが見えてきました。

 

 

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