この日の夜も野外にてご飯をいただきます。
品目はしゃぶしゃぶだったのですが、お鍋がふたつ。
ライトを用意していなかったので、どんどん闇鍋の様相を見せつつも、美味しくいただきました。
お鍋がふたつ、というのは、ひとつは普通に水を張ったお鍋で、もうひとつは白樺樹液を使ったお鍋になっていました。
食べ比べてみた感覚としては、シラカバ樹液のほうがお肉がかたくならない?と感じました。あとは甘さを感じたこと。色々な発見を感じながら、締めのうどんまで平らげました。
その後は歓談しながら、そのそばでは白樺のトーチ(たいまつ)を実施。
いくつか切り込みを入れ、その中に火をともして焚火のように燃え上がるのを待ちます。
その間、空気を送ったりなどして炎が燃え上がるのを待ちます。
炎がメラメラと昇り竜のように舞い上がる様子を見て、とても神秘さを覚えました。
その周りではこどもたちがトーチに枯れ枝や枯葉などを投げ入れては炎が燃え上がる様子を観察しているとともに、枝の先にだけ火をともし、線香花火の終わりの状態のような感じにして、暗闇でくるくると回していました。時にはじぶんのなまえを書いたり。そしてときには踊り子さんの演技のように回したりと、凄く楽しんでいる様子でした。
その後室内に戻り、ワークショップは夜の部へ。
ここでは、むかわ町の地域おこし協力隊だった方の発表と、現在地域おこし協力隊である方の発表2種類が披露されました。
でもね、このときはねむねむだったんですよ(汗)
頭をかっくんかっくんさせながら(笑)、興味深いキーワードに時折反応していました。
ここまでで想うことは、木も野菜などと同様に「自然の恵み」であることでした。
白樺の樹皮を剥がすという行為は、ひょっとしましたら一部の「自然を護る」という立場の人からは反感を買う行為になるやもしれません。何故ならば現在でも「自然はそのままにするべきだ」という論理が信じられているからです。
上記のことばに関する見解は、「半分正解で半分間違い」なのです。
ぶっちゃけ言いますと、「自然をそのままにしていると、そこの自然は崩壊する恐れがある」ということになります。
理由を述べますと、植物もまた自らの子孫を残す行動をします。自分が生きた場所や他の場所に種を運んでもらい、いのちをつなごうとします。
そのシステムは神秘的なのですが、そういったシステムを組み込まれているのは、この地球に生きるいきもの「すべて」だということ。そして、じゅうぶんに成長し生きていくには、それなりに必要なスペースが存在するということなのです。
よく自然をテーマとした番組を見ますと、「痩せ細った樹木」というのが出ています。
先に言ってしまいますが、いま日本ではこの「痩せ細った木」というのがどんどん増えています。
少し大げさに書きますと、これはいわゆる「危険信号」です。
これまたどうしてかと言いますと、大雑把に書きますが以下のようなことからです。
まず、木は「水分」をその中に蓄えます。健康であればあるほど、その中には水分を多く貯め込みます。そのため、「生木」という表現があるくらいです(反意語は枯れ木)。
山を例にして書きますが、水を貯めるところはどこになるでしょう?
答えは「山全体」なのですが、細部を見ていきますと「土」そして「木」になります。
土に水は沁みこむという性質を私たちは遊びなどを通して知っていると思います。
しかし土以外にも、水を蓄えてくれるところがあったということになります。
ダムのような書き方になってしまいますが、その貯水量の大小は、その場所の健康度が関係してきます。水をさほど貯えることが出来ないところほど、衰退します。そして先日のような災害が起きてしまう可能性も出てきます。
上記のような現象は、「人間の手が入ったからだ」と指摘するひともいらっしゃるかと思います。それはそうなのですが、自然の繁殖力を見誤ってしまいますと、人間の手が入ろうがそうでなかろうが、そのいきものが健康的に成長できる環境のバランスは崩れます。現代に入り、そのバランスが至る所で崩れてきているように感じます。
これは個人的意見なのでそれが正しい見解という訳ではありません。
ただ言えることは、人間の手が入ることで生き返る山や森はたくさんあるということ。
そうなればどうなるでしょうか?
経済の観点から申しますと、「林業」に注目が集まります。
昨今は林業を含めた1次産業が縮小の傾向にありますが、失くしてはならない産業であることに変わりはありません。そして林業を含めた1次産業は、注目されるべきものでもあると確信しています。
現にマンガや小説などで取り扱われており、注目を集めるとともに実際に就職する人が増えましたからね。とはいっても、キツイ仕事に変わりはありませんが。
「自然の恵み」ということばとても良いことばではありますが、近年は人間の手でコントロールする時代となりました。天候や温度ですらも、人間の努力によって不利な条件を克服しようとしています。農業でも漁業でも酪農でも、何かしらの打開策が生まれているのが現実です。林業も革新が起こってしかるべきだと感じているのです。でなければ、木がもたらす「自然の恵み」が枯渇してしまったとき、はじめてその大切さにひとは痛感するでしょう。しかしながら、それの打開策を自分で探り出そうという気概はなかなか出てきません。自分で何とかしようとしないからこそ、瀬戸際まで追い詰められてしまうのです。ほんとうの「恵み」は、「勝手にもたらされる」ものではないということを、肝に銘じておくべきだと感じました。
自分でやりませんと、こたえは見つかりません。
木育ワークショップ1日目は、たくさんの智恵と恵みを感じた1日となりました。
夜中の豪雨の音に目覚めながらも、朝まで泥のように眠りました。