つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

自分も忘れている、本当の目的へ向かう。目先のではなく、生きる過程で出てきたのでもなく。

過去。

現在。

未来。

 

わたしはあの時、何をすべきだったのか。

わたしはこの時、何をすべきなのだろうか。

わたしはこの先、何をしていくべきなのか。

 

 

 

そんな想いや思考が波のように繰り返される。

時折、わたしは間違ってはいないだろうか、といった不安が水底から足を引っ張る。

決めても覚悟しても、忘れたころに、それこそ魔が差すようにそれは訪れる。

その先には、誰かが己の幸せな姿を見せびらかしながら「お前は間違ってるんだ」と勝ち誇った姿がある。それをこれ見よがしに見せている。

 

実際に目の前にはいないのに、わたしは何をそんなに気にしているのだろう。

誰も、この選択が正しいかどうかもわかることは少ないのに。何をそんなに決めつけたがるのだろう。それほど、己は特別な存在なのだと威張っているようだ。

 

 

 

今更居丈高にしても仕方ない。威張ってもたかが知れてる。幸せになったとしてもそれが続かないのであれば、幸せを何か履き違えていると思った方がいい。じぶんはどうあるべきか、どうすべきか。考えてもすぐに答えなど出ないことを、ぐずぐずと考えてしまっている。

 

 

 

 

小さなことから解決をしていけばいい。

それがやがて、自然に大きなことの解決に繋がる。

 

今朝引いたカードが、そう教えてくれた。

 

 

 

目的に向かって行動することはある意味かんたんなことなのかもしれない。

しかし、目的はあってもどのように動けばいいかわからないときもある。

そんなときにはどうすればいいのだろうか。

いまやっていることは無意味ではないのだろうか。

そんな苦悩に対して、図らずもカードの想いが教えてくれた。

 

 

 

いま起こしている行動が、無意識に持っている目的の達成に向けてのものだったとしたらどうだろう。それはときには疑心暗鬼にもなり、自問自答の日々を過ごすだろう。しかし目先の目標よりも、達成感やその道のりの偉大さに感謝するのかもしれない。膝が折れ、大地に向かって深々と礼をするように。大いなる存在に対して、いまここにいることを感謝するように。

 

 

 

だから「それでも」なのだ。と、わたしのなかの誰かが呟いた。

 

「それでも」ということばが、つながり始めている。

打ち合わせから徒歩で自宅に戻る途中で「それでも」は座右の銘にしてもいいかなと思っていたけど、どうやら冗談では済みそうにない。それほどに、この言葉の力を少しずつ感じ始めている。

 

 

 

 

 

 

 

いまを信じろ。

目の前のことをこなせ。どんなことでもだ。

 

笑わせておけ。批判させておけ。そいつは単純に「知らない」だけだ。

いまお前がやっていることが、その笑ったり批判したりしている奴をいともかんたんに超えることにつながるということを。

 

 

笑わせておけ。

批判させておけ。

 

 

そんな奴は、今は偉大でも、次第に貧相になる。

わかっているフリをしているだけの人間には、何もわからないよ。

 

 

 

そんな毒づいたエールを、もらった。

 

 

 

 

 

 

 

自分自身が定めた「苦しみの海」は、ふいに訪れた「それでも」という陽の光が射したことによって、その苦しみの闇が和らいだように感じた。たとえその闇の深さが変わらなくてもわたしはそのまま進み抜くと決めていたが、その和らぎ方を見て、ささやかなエールと、進む方向が間違っていないということをこっそり教えてくれたような、ひとり得した気分になった。