つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

情報もガラクタも溜まり過ぎると「機能」は鈍ります。ときにはスピード勝負が大切です。

ブログを読んだ家人から


「間違ってるよ」との指摘がありました。。


今の物件は不動産屋からの連絡ではなく、並行してネットで物件を探していてヒットし、内覧を申し込んだとのこと。

 

もう、記憶があてになりません(汗)

 


この時期の自分に焦点を合わせていくと、絶不調だったことがわかります。
だからこそあまり「振り返りたくない」心境だったかのかもしれません。

 

詳細は割愛しますが、個人的にはこの引っ越しを最後の「ご奉公」のような感じで捉えていました。
だから「引っ越し先は自分が決める」気持ちになっていなかったのかもしれません。

ただ、家人や「北章ハウザー」の担当者さんがすごくこの物件を推してくれたので、重い腰をあげることができました。

 


以前は凄く腰の重い人だったんです。

表現すると「石橋をたたいてもたたいても結局渡らない」くらい 笑。


それが動いたものですから、自分でも清水の舞台から飛び降りる気持ちで決断しました。

 

引っ越し先を決めるまで、本当に膨大な「物件情報」を見てきました。
インスピレーションで選り分けたり、具体的な内容で選り分けたり。


「情報」の活きの良さは短期間のため、せっせと「情報のガラクタ整理」は行っていました。
今では本当に情報だらけの世界になってしまいましたね。

雑誌はもちろん、テレビやインタ―ネット。

情報を収集して、より多くの情報を持っていることがステータスのように感じたこともあります。

 

しかしやっかいなのが「こまめに情報の更新をしなければならないこと」

情報は一気に風化してしまうのです。
なので、情報の収集と整理の仕方を自分なりにカスタマイズしなければなりません。
そのカスタマイズは「増やす分量を調整する」だけではなく「古くなった情報を整理して手放す」ことも含まれます。


わたしもこれまで3回ほど大きな「ガラクタ整理」を行ってきましたが、セミナーなど講座関連の資料やタウン誌といった「紙媒体の情報」はほんとうにたくさん持っていました。
講座の資料は振り返りにも使えますし、タウン誌については特定の地域を特集したりもするので「ここに行くときはこのお店を押さえておかなくては。」という気持ちが働き、どんどん溜まっていったのです。
気づいてみると雑誌の収納スペースや書類の収納スペース、どちらもぱんぱん。
こと書類に関しては、探そうとするたびにそこから「全部引き出して」目的の紙を探すほどでした。

 

それを、ガラクタ整理のときに大幅に減らしました。
「情報」は「持ちすぎ」ても有効には使えない。
ならば「必要なぶん」を見直していけばいい。

そう思って選り分けていきましたら、思いのほか資料も雑誌も手放すことが出来ました。
紙類はまとまると本当に重いので、こんな重量を我が家で抱えていたのかと思うと複雑な気持ちです。

 

情報はどこを基準にして整理していけばいいか、判断に困ることもあると思います。

ですが
・瞬時に選別できるもの
・ある程度保管できるもの
・今すぐは判断できない、保留するもの

と、おおよそこんな感じでカテゴリ分けができるのではないでしょうか。

 

仮に、ほんのちょっとしか整理できなかった!結局保管するもののほうがいっぱいあった!


としても、いいのです。整理できたことが凄いことなのです。
だって「自分でこれは必要か不要か」をひとつひとつ見て触って判断したのですから。

あとは、溜まりすぎる前に再度チェックしていくことを忘れないようにしていくことです。

 


たくさんの物件情報の荒波に揉まれながら、無事に引っ越し先を決めることができました。

 

さぁ、本格的に「引っ越し」の準備に取りかかることになります。
次回は「引っ越し業者」について述べていきます。

 


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きょうのオラクルカードは

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No.38「慈悲」です。

キーワードは「仁愛」「好意」「神聖なるギフト」「道義心」「哀れみ」

 

キーワードに関してはNo.34の「JOY(喜び)」と同様の内容になっています。

 

先日34番を引いた時に解釈できなかった「哀れみ」。


なんで喜びのキーワードに「哀れみ」が入っているのだろうと考えましたが、その時はあまり考えが進みませんでした。


辞書で調べてみると

かわいそうに思う心。慈悲。同情。

とありました(出典:デジタル大辞泉)

 

どうも「かわいそうに思う心」のほうがイメージとして先行しがちですが「慈悲」と同義でもありました。


慈悲深い人とは、例えば教会の神父さんやお寺の住職といったイメージがあり、あまり一般ではみかけない印象が強いです。
それは日常生活が煩雑すぎて慈悲どころではないからなのかもしれません。

 

ニュースを見ていますと、ほんとうに悲しいことに「弱い立場」のひとたちがこころとからだ、両方に深い傷を負いすぎです。
その「弱い立場」にあるひととは、子どもも大人も含まれています。

哀しくも顕著になってしまったのが

そういった「弱い立場」のひとをかんたんに追い詰めるということ。

 

犯罪報道や不道徳に関する内容に関しては特集を組み、これでもかというほど糾弾し、社会の同意を得ようとしています。
これはテレビだけの問題ではなく、お勤めの会社だったり、通っている学校だったり、それは「どこにでも」置き換えてしまうことができてしまいます。

 

ひとは誰かを責めることは徹底して手を緩めることはないのに
いざ当事者になると「配慮」や「人権」といったことばを用いて自粛をお願いする


「自分だけは」という特別感ばかりが前に出てしまい、かえって事態の不満感を煽ってしまう。


なんだか、そんな光景を聞いたり目にすることが多くなりました。
そして、知らず知らずにそのような傾向に「流される」ひとたちも多くなりました。


誰しも「過ち」は起こします。
問題はその過ちを執拗に取り上げてしまうことです。

 

果たして、そこに「慈悲」はあるのでしょうか。

それとも、日常生活に「慈悲」は不要と考えているのでしょうか。

 

ひとはひとを戒め、また戒められる存在であることを忘れてはなりません。

そして、わたしたちは「生かされている」ということを「慈悲」ととらえるべきなのかもしれません。

 

わたしたちはたくさんの「慈悲」に包まれて活きていて、活かされていることをていくことが必要なのかもしれません。

 

 

 

今日はイベントのチラシを置かせていただくために2軒ほど訪問させていただきました。

 

1つめは「マカリイズ マーケット」

2つめは「トマト麺 Vegie(ベジィ)」

 

2軒とも突然のお願いに快諾してくださり、ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいでした。

 

「たすけあい」

 

というのも、哀れみでありまた、慈悲なのかもしれません。