3/9 写真を1点追加。
今日は4月のイベントの告知を個別に行うため、友人・知人、そして一部親族宛にせっせと手書きで手紙を書いていました。
効率だけを考えるならパソコンでテンプレートを作成し、あとは個別の文章を加えて印刷すれば無事終了・・・となるのですが、けっこう前からプリンタの調子が悪く、ワードやエクセル、パワーポイントで使用する文字に対しての印刷に線が入り、かすむようになってきたのです。
反面カラー印刷に関してはまったくの問題なしで、黒の塗料でも2種類使ううちの1種類はなんとも不便な状態のまま、現在も使用します。
そんなこともあり最初から文書を作ることはせずにお便りを出そうと思っていたのと、やはりわたしといえば「手書き」の手紙だな、と勝手に考えていたので、別の選択肢を考えることなく手紙を書く仕事に取り掛かりました。
じつは、最初から手紙を書くことが好きだったわけではありません。
そもそものきっかけを考えていたところ、小学校の国語の授業が思い当たりました。
それは「俳句」や「短歌」または「詩」を自作してみようというもの。
こういった創作活動の授業は当時としては刺激になり、楽しみながら作っていた記憶があります。
中学校時代には授業で小説を書きました。
また夏休み期間中に校内の文学コンテスト?のようなものもあり、そこに作品を提出したこともあります。
高校時代は特になにもしませんでしたが、大学生になってから、手紙を含めた「字を書くこと」への意欲が高まり、ライフワークのひとつになっていった感覚があります。
加えて大学時代はレポートを提出して単位を取得するという流れがあり、否が応でも字を書かなければならない状況にあり、苦しい中でも文字を捻り出していた記憶があります。それがいま活かされているかどうかはわかりませんが、なんの抵抗もなくペンを取り手紙を書くこともあれば、パソコンの画面に向かって文字を打ち込むことも出来ています。
この時点で9通。
きょうの午前中に郵便局へ出してきましたが、その数は10通。
個人で1度に出す数としては間違いなく多い数だと思います。
しかし今回は4月のイベントがかかっています。
ここ数日のあいだに「やれることはやりきる」という明確な意思が芽生え、自分を突き動かしているのです。
これは普段の生活ではなかなか感じ取ることは出来ないな、と思いました。
わたしも会社員時代がありましたが、自分の仕事は大方会社の所属の部署から「与えられた」仕事になります。それに対して様々な指示があり、そして制約がかかります。それが時としては「がんじがらめ」の状況下で仕事をしなければならないときもあり、自分の意思で「こうしたい」「ああやりたい」という意思は組織によって淘汰される場合も多くあると思います。
もちろん、与えられた仕事を「自分の仕事」として受け止め、到達点に向かって「やりきる」ことも可能です。しかしながら残念なケースとしては、リスクが少なく、確実な方法で、かつフレキシブルに、多大な成果をもたらすことなどを条件として突きつけられます。
また、自分の意見に対して否定的な発言をしたはいいが対案を出さず、結局従来通りのやり方で通して目標に達しない・・・という場面がいかに多いか。
そうなるともう、仕事への意欲は失われます。
何のために仕事しているんだろうと自問自答しても、仕方のないことです。
現代の会社の経営方針を批判しても仕方ないところはありますが、その会社の社員として働いている方たちは、抱えている仕事に対してどれだけ「熱」を注げるかが大事なんだと思います。熱があるからこそON・OFFのスイッチが上手に使え、時間なども効率的に配分が出来る。夢物語なのかもしれませんが、長引かせることが常態化した仕事は、私生活にも影響を及ぼすことは必至です。
わたしは会社員生活に別れを告げました。
この時点で、会社員としてお仕事をされているかたのことに対してあれこれいう資格はないかもしれません。
会社員生活を経験したうえで、個人事業主として活動を始めました。
自分で仕事を創り、自分でその展開について考える。
自分で考えて行う仕事なので、それはもちろん楽しいです。
しかしその反面、会社員時代以上のプレッシャーを感じています。
何が正解かもわからない。自分のどんな行動が相手にとっていいものなのか、日々自問自答しています。
その中で唯一できることとしたら「やれることはやりきる」こと。
これ以上でも、これ以下でもないんだ、と。
やれることはやりきって、あとは委ねる。
委ねることができる状況まで、納得いくまで「あがく」こと。
人間ひとりの力など、弱小そのものです。
しかしそんな小さな、弱々しい力でも、何かは出来るはず。
今回のイベントが終わった時点で、やり残したことがないようにする。
そのためにいまできることをやる。
ごくごく当たり前のことなのかもしれませんが、チラシを置いていただける店舗を探しつつ、他の広報手段を思案しながら、そのような情熱を抱きました。
4月開催の各種ワークショップ、参加者募集中です。
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きょうは料理を習いに外出したはずだったのですが、夜ごはんはいつも通り宴会となってしまい、帰宅が先ほどになってしまいました。
あさに引いたカードは
No.48「認識」でした。
キーワードは「気づき」「認識」「把握」「洞察」
確か昨日のカードは「洞察」。No.6でした。
インスピレーションだったり、啓示だったりと、関連性のあるカードを引いていますね。
「相手の動きが手に取るようにわかるんです」
「仲間なので いまどんな気持ちでいるかははっきりわかっています」
ときに人は、相手を知るために相手のことを「研究」することがあります。
それは恋愛などでも同様で、知りたいというのは欲求のひとつでもあります。
その過程のなかで出てくるものは、自分にはなかったものを見せてくれたりもします。
その気づきに対して、あなたは相手に嫉妬するでしょうか。称賛するでしょうか。
このカードは相手の「弱点」や「欠点」を把握させるためにあるのではありません。
結局そこには「爭い(あらそい)」しか生まれず、光からは遠ざかります。
なんのために気づきを得て、認識を収めて把握するか。
それは個々のなかにある「目的」が異なっていれば、認識の中身も異なるということを知っておいてください。
人間は、以外にも不器用ないきものです
書いても「伝わらない」こともあります。
そのときには「会話」をして「伝えあう」ことが必要なのですが、大事なのは話し相手同士の中にあるものが「かけはなれてないか」。
その解釈が違うことで、同じ料理でも味は変わります。
解釈が一致して「把握」出来たときにこそ、はじめて明確な答えが見えてくるのだと思います。