つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

家にある衣類、すべて把握してますか?

家計簿の整理が終わった後は、衣類の整理を行いました。

 

 

わたしは会社勤めであったことから、背広やワイシャツ、ネクタイにビジネスシューズなど一応アイテムは揃っていました。

 

しかし、会社員生活に別れを告げることもあり、これを機に整理することにしました。

 

 

 

 

 

 

こういった仕事向けの服装と、普段の服装では所有している数の多さもあるかと思いますが、みなさんはお持ちの「衣類」をまんべんなく着用することが出来ているでしょうか。

 

 

 

傾向として80:20の法則(パレートの法則)というものがあるらしく、これを衣類に当てはめてみると

 

 

 すべての衣類が100に対し

長期間着用していないものの割合:全体の80%

普段よく着用しているものの割合:全体の20%

 

なんだそうです。

 

 

こう見ていくと「普段着る服のラインナップ」はおおよそ決まってくると言えます。

長期間着ていない服も「まったく着ていない」ものや「たまに着る」ものもあると思いますが、使用頻度が極端に少なく、そのバランスが偏るということに。

 

 

ということは、衣装持ちの方はどれだけたくさんの服を持っていらしたとしても、そのすべてをバランスよく着用しているわけではない、ということになります。ましてやその服の量が多ければ多いほど「何を所有しているか」があいまいになってくる可能性が高くなります。

 

 

たまにしか着ることのない服で、使用頻度が少なくても所持していたほうがいいと思われるものもあります(礼服など)。それは個人の置かれている環境によって変わると思いますが「いつか着よう」「○○になったら着る」と思いつつもずっと着ていない服がたんすの引き出しの中に眠っているのであれば、それは整理の対象になります。

 

 

 

 

 

 

 

理由として

 

「いつか」「○○になったら」は、具体的に「いつ」になるのか。

 

これが明確でなければ、この先もずっと同じことを言っている確率大です。

 

 

 

ダイエットや英語の勉強なども同じで「明確な目標」という軸が立っていないと、最初は熱血的でもだんだんと尻すぼみしていきます。

 

 

 

服に対する思い入れはほんとうに様々だと思います。誰かが一概に「こうだ」と言えない服だってあります。

 

もし、あなたの部屋のタンスやクローゼットに長年着ていない服があったなら、その服のために時間を作ってあげてください。そして服を手に取り、服への想い・気持ちを確認してみてください。

 

 

残すとしても、整理するとしても、その時に感じたものが、ガラクタ整理には必要な大事な感覚です。

 

 

 

 

 

 

さぁ、わたしのケースに戻します。

 

数量は少ないのですが、ワイシャツとネクタイ、靴とビジネス用のTシャツ(白無地)などを整理しました。

ワイシャツ自体はまだよれておらず、着用は可能なのですが襟や袖口にはクリーニングでも落ちなくなってきた汚れが目立ってきたので、思い切って捨てました。あとはドレスシャツ?カジュアルシャツ(のようなもの)もポイ。

 

 

ネクタイに関しては一時期コレクション状態になっていて数多く持っていましたが、この時点で10本未満という驚異の少なさに。背広には手を付けませんでしたが、これは後日手を付けることになります。

 

項目としては「これだけ」だったとしても、ゴミ袋に入れてみればかんたんに埋まってしまいます。「カタチを変えて規定のものの中へ入れてみる」ことで、どれくらいのスペースを占有していたかを確認できます。置かれている状況が変われば「ガラクタ」は誰のもとでも発生する。

 

 

環境としてはまだまだ落ち着く状態ではないですが、それでも確実にモノは減りました。

 

 

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きょうは雨になっています。雪解けも進みそうですが、数日前は気温が連日10度を超えたこともあり、屋根からの落雪が頻繁に起きていたようです。まだまだ油断は禁物かもしれません。

 

 

曇り空の中、引いたカードは

 

 

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No.60「正しさ」でした。

 

キーワードは「美徳」「道徳」「正しさ」「高潔さ」「適合」

 

 

 

正しさ=正義という感じを持っていましたが、このカードを読むとその印象が変わってきました。

 

 

いまやこの世界には「正しさ」を訴えても「無視」されたり「抑圧」されるという不思議な現象がしばしば起こります。それは思うに「Aさんが持つ正しさ」と「Bさんが持つ正しさ」のぶつかりあいのような感覚を覚えます。

 

もちろん、その「正しさ」を主張することになった背景も独特のものだと思っていますし、仮にその背景を互いが理解し合い、双方が納得する「正しさ」を導き出すことも可能であるはずです。しかしそういった展開はまず見ることがありません。

 

 

 

「結局、じぶんのことしか考えない」

 

 

そこから外に踏み出す人が少ないため、解決に至ることは少ないのではと考えています。

 

 

 

正しさは自分自身が持っているものと、自分以外の人が持っているものがあります。

自分自身の「正しさ」は、自分が携えたものなのだから疑う余地はない、と思ってしまいがちです。

 

相手の「正しさ」は間違っていると、近年の報道を見るとこの主張の大合唱になっています。

 

 

特定の問題を指して「こっちが正しくて、こっちが間違っている」ということを述べたいわけではありませんが、ときには非難・批判をしている相手の「正しさ」のなかにもし「あなたが携えているものを超える正しさ」があったとしたならば、あなたはどんな行動をとることでしょう。

 

 

このキーワードには「道徳」や「適合」という語句があります。

また「美徳」や「高潔さ」といった表現もみられます。

 

 

相手の正しさを認める。

じぶんの正しさが誤りだったら素直に認める。

 

これもキーワードに倣った「正しさ」になるかと思います。

 

 

 

ましてやその「正しさ」は神などの大いなる存在が「こうだ」と決めて伝えていたとしても、それを「正しいかどうか」はひとの判断に委ねられます。大いなる存在はわたしたちに「委ねている」のであって「指示」はしていないことは「道徳」にあたるのかもしれません。

 

 

 

いま持っている「正しさ」に対する責任を果たす。

 

そこに対する「軸」が定まったとき、あなたをまとうオーラのようなものに「高潔さ」が加わるのだと思います。