つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

押入れをタイムカプセルにしてはいけない。時間を止めた場所を作ってはいけません。

マガジンラックにある重くてやっかいな雑誌類を整理。

 

 

 

 

次に行ったのが、これでした

 

 

-押し入れに入っているダンボール-

 

 

ここには

 

・コミック全巻セット

・ムック本

 

が入っていました。

 

 

引越のダンボールに詰めて、そのまま3年以上開けずに放置。

ダンボールの上に他の荷物も置いてあったので、ほんとうに手つかずの状態でした。

 

 

これを押し入れから引っ張り出し、中身を確認。

 

 

コミックスの全巻セットは全部で3作品あり、そのどれもが全30巻程度の代物でありました。

 

 

これまでは「無条件」で残してきたものでしたが、これを機に手放すことにしたのです。

 

全巻セットではあっても、もうしばらくの間読んでいないのであれば、これもガラクタです。読み返して「やっぱ面白いわ!」となり、保管したくなる気持ちが湧くかもしれませんが、また同じように数年間読むこともしないのであれば結果は同じ。わたしは100冊近いコミック本を手放すことにしました。

 

 

その他のムック本もコミック同様に無条件で残しておいたものだったので、同様に整理することにしました。

 

 

要するに

 

 

ダンボール1箱まるっと整理しました。

 

 

 

コミック約100冊とムック本が入ったダンボール。

 

結構な重さだったことは言うまでもありません。

 

 

 

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写真が残っていました。

よーく見たら文庫本も入ってましたね。

宮澤賢治全集(角川文庫)とか、ロードス島戦記シリーズとかもありました(角川スニーカー文庫)

 

 

 

-押し入れにあるカラーボックス-

 

カラーボックスは3段ものと6段ものがあり、ここに読み終えた文庫本を収納。

ここには読み終えても残しておきたかった文庫を中心に収納していましたが、これをきっかけに整理することにしました。

 

カラーボックスにはほかにCDも入っていたため、本の整理は10冊程度で終了。

 

 

しかしながら、カラーボックスへの収納はやめにしようと決意しました。

そのため、CDの整理時に合わせてカラーボックスも整理することになります。

 

 

よく昔のものが入った箱を引っ張り出した時には「懐かしい」気持ちになります。

 

わたしも同感です。

 

 

 

最初の整理のときにも話しましたが、そのモノすらも忘れ去られることがあります。

そのものが「多く」なると、把握が難しくなります。

 

 

もちろん、収納できるキャパシティがあれば収納してもいいですが、収納できる範疇を超えた状態で保管してはだめだということ。

タイムカプセルにしてもいい。

でも、タイムカプセルも把握する必要があるのです。

 

把握できていなければ、是非一度整理をしてください。

整理をして、把握できる環境を作ってください。


家の空間のなかでそのような場所があると、そこだけ「時間が止まり」ます。
そうすると、どこかで「進まない」じぶんが投影されてしまいます。


それではどんなに「忙しくて」「楽しくて」「充実」していたとしても、どこか肝心のところで足を引っ張られます。
そうならないためにも、生活環境の「足元」からすっきりして臨むことが重要です。

 

 

 

4月開催の各種ワークショップ、参加者募集中です。

maruyamabase.hatenablog.jp

 

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けさ燃やせるゴミを出しに行きましたら、ゴミステーション(鉄製のカゴ)が他の家庭から出されたもので溢れる寸前でした。

季節の変わり目や進学・就職ということもあり、ほんとうに多くのものが変わっていくようです。

 

部屋の空気を入れ換え、掃除を行った朝に引いたカードは

 

 

 

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No.55「変成」でした。

 

 

キーワードは「大変貌」「昇華」「変化」

 

 

変貌を遂げるということばがありますが、これは何か「まったく元の姿とは違うもの」に変わってしまうという、いわばマイナスイメージで使われていたような気がします。

しかしそれは「幼虫」から「蝶」になるという、いわば「枠」を外した最高のかたちとも言えそうです。

 

 

 

 

「昇華」であっても「変化」であっても、それは自分が望んだとおりに叶うものではありません。むしろ「望む」こと自体が「不遜」だと、本来ならば評されることなのだろうと思っています。

 

 

 

 

わたしたちは常に「良い」変化を求めてしまいます。それは「負担」のない「変化」であり「何も悪いことが起きない」変化でもあります。しかし自然界の変化や大変貌を見ていくと、変化のたびに「捨て去っている」ものがあることに気づいてください。昇華であってもそうですが、何かを「脱ぎ捨てる」ことも現象として発生しているはずです。

 

 

見た目の印象などでは「悪い」「わたしのことをわかってない」などの評価を下されることもままありますが、時間が経つことでその印象が徐々に変わっていくこともあります。それはその対象の「役割」や「立ち位置」などを徐々に理解していった結果だとも言えます。

 

 

 

 

わたしたちは常に「変化」を知らず知らずに許容しています。しかしながら目の前の出来事に対してはかんたんに許容することはできず、じぶんがこうだと決めた選択を取り、相手を否定してしまいがちです。

 

 

 

 

 

 

しかしそのような行動をとった後で、否定した出来事を見直してみたときにこれまでと違う何かが視界に入ってくるということもあり得えます。そこにあなたがとっていた「頑なな姿勢」という呪縛を解く階段の入り口が見つかり、のぼっていくごとにあなたを狭めていたものが「昇華」されていく。

 

 

いま、あなたが縁あってその場所に居るということは、おそらくそういうことがこの先に待っているからなのだろうと思います。