つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

手繰る。「わたし」を信じるために。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「きょうのオラクルカード」

点描画アーティストで東京在住の秋山峰男さんの画と、ヒーラーでセドナ在住のクレッグ・ジュンジュラスさんのリーディングによる共作「インスピレイショナル・マンダラオラクルカード」を使用。1日に1枚ランダムに引いています。ここで綴っている文章は、わたしがそのカードから伝わってくるものを書き起こしたものです。

現在は「今日わたし以外の誰かに1枚のカードを伝えられるなら、わたしにそのカードを引かせてください」と念じて行っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

昨日に続き、きょうも自分に向けてカードを引かせてもらいました。

 

 

 

きょうのカードは

 

 f:id:maruyamabase:20160411195926j:plain

 

 

No.5「ブレイクスルー」

 

 

 

キーワードは「浸透する」「進み出る」「目覚め」「進歩」

 

 

 

「変化に備えなさい」と言っています。

 

昨日の「平穏」のカードは「変化の前の準備」のように感じます。

 

 

 

リラックスがカギと言っているのですが、今週末のイベントに関することで頭がいっぱいで、正直リラックスどころではありません。

 

この残り時間で何ができるか、何かやり残したことはないか、どう伝えれば、どう届ければ打った鐘は響くのだろうということをずっと考えながらやってきました。

 

 

しかし、実際はこれでもかというくらい響かない。

 

 

一気に自分がどこにいて、どの方向に向かって立っているのかさえわからなくなりました。

 

 

 

 

このマンダラオラクルカードでは「委ねる」ということも重要だと言っています。

 

しかしいまのわたしは「委ねる」ことすらできない。

 

 

 

委ねるのは、じぶんが空っぽになったときだと思っているから。

じぶんがあがいてもがいて、やれることをすべてやりきったときにはじめて「委ねて」もいい権利のようなものが生まれると思っています。

 

 

はじめての大仕事。

 

やはり「数字」にとらわれるし、ある種の「達成感」を目指して今日まで広報と自身のガラクタ整理の体験を綴ってきました。ただ今思うのは、それすらも「枠」になり得るということ。

 

 

 

 

昨日から体調不良のためか、素直にカードのメッセージを読み取ることのできないじぶんが、います。

 

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ガラクタ整理 Season4をお送りしています。

ガラクタ整理師の竹内清文さんが東京で主催した「モノ&メンタル スペースクリアラー講座」に参加しました。そこで与えられた課題をこなすために自宅のガラクタ整理を行っています。

このシーズンでわたしは卒業アルバム以上のモノを手放すことになりました。

ガラクタ整理の時期は平成28(2016)年 2月~3月、そして4月(講座後)となっています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

昨日の日記で、わたしは「信仰」を整理したと伝えました。

 

 

 

そのきっかけとなったのが、今回札幌に招いて行われる「ガラクタ整理ワークショップ」。

 

 

出逢った当時のわたしとしては単純に「家にある不要なモノ」の整理にしか頭が向いていなかったのですが、心と感情へのアプローチが盛んに行われ、結果「信仰」といういわば信条や心へのアプローチに関することや、所属していた団体に関わるもの一切を整理しました。

 

 

 

 

 

 

ここからはあくまで「個人的見解」でありますが

 

 

 

 

 

わたしがその団体から退くそもそもの決め手となったのが

 

 

 

「宗教に入っていても成仏(または昇天)はしない」

 

 

 

という結論に至ったからでした。

 

 

 

 

これはわたしが身を置いていた宗教だけのことではなく、この世界に存在する新旧の宗教すべてを指します。

 

 

 

 

 

その理由として

 

「成仏(または昇天)できると言っているが、その確たる証拠は一切ない」

 

ということです。

 

 

 

いやあるよ、という関係者のかたもいらっしゃるかもしれませんが、上記のような経験をするかたは「人生を終えた人」になるわけで、その方から上記のようなことを聞き取ることは無理です。

 

 

そのため、各宗教団体はこの「不確定な事項」を自団体の正しさの証拠として担保しているということになります。ある時期からわたしはそれが不思議でしょうがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

そして違和感を感じたのが「信仰心」

 

 

やはりその団体にいるとこの「信仰心」がひとつの「ステータス」になり、その上下で人を見比べたりする傾向があったということと、いかに信仰心が篤く、内側の人間からは慕われていたとしてもそれは「人格者」には直結しないということ。

 

そんな信仰心の篤いひとですら、嫁の気持ちを理解しない最悪の姑だったりするわけです。

 

 

 

 

 

そうなるともうわかりません。

 

昔は宗教は生活習慣や倫理など様々なことを学ぶことができた貴重な存在であったはずが、今や「宗教法人○○会社」のような感じに見えてしまって仕方ないのです。信仰心は「営業力」になり、人となりに問題があっても実績を挙げているからお咎めなしでは、信仰をし続けていく意義に疑問を感じます。

 

 

あくまで個人的見解であるためこのことについて関係者と論じ合うことは希望しません。

そしてこれは「個人」が身を置いていた団体から「守破離」の理にのっとり、飛躍の道を選択したと考えていただきたいです。

 

 

 

 

 

 

一連の過程で点描画アーティストの「秋山峰男」さん、セドナ在住のヒーラー「クレッグ・ジュンジュラス」さん、ナカトリモチの「山野本竜規」さんらと出逢い、様々な疑問をぶつけさせていただいた中でじぶんなりに導いた答えが、今回の整理につながることになりました。

 

 

 

 

 

 

 

決して、この人たちが「そんな宗教、やめなさい」と言ったわけではありません。

 

決断し実行に移したのは他ならぬわたし自身です。

そのための論拠を確立させたのも、他ならぬわたし自身です。

 

 

 

本当であれば、その団体から距離を取るだけでもよかったのかもしれません。

しかしもう「気持ちが上がらない」信仰を受持していても仕方ない。

 

そう思って、思い切って、手放しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い切ったんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その団体に身を置いていた時間はほんとうに長かったので、いろんな思い出があります。

 

それを手放すということは、ひょっとしたら知り合いとはこれでおさらば、になることだってあり得るわけです。

 

よく他人はそういったことに対して強気の発言をしますが、この感情は当事者にしかわからないこと。理解してもらおうということではありませんが、別に宗教がらみのことに限らず違った環境でもこういったケースはあることだと思います。その時にどんな言葉をかけてあげることができるか。その人の気持ちになって考えてあげていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしが整理した「信仰」のはなしはここまで。

わたしは「信仰」とともに「信仰に寄せていた感情」を整理することが出来ました。

 

なお、書類等に関しては日曜日の午前中に到着を確認しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イベントまで残り数日になりました。

 

 

 

全日程満員御礼にすると、心に決めています。

まだ、諦めてはいません。

 

委ねるのは、まだ少し先のことだと考えています。