ちょっと間が開いてしまいましたが、前回の日記でわたしは「創価学会」を整理したと述べました。
学会関連の本はこれまでのガラクタ整理で少しずつ減らしていき、昨年末でほぼすべて手放しました。
モノ&メンタルの講座を受講してからは、仏壇まわりの小物、仏壇そのもの、経本(お経が書いてある本)、御書(キリスト教の聖書のようなもの)、そして本尊という順番で整理したと記憶しています。
仏壇は粗大ごみへ。
本尊は東京・信濃町にある本部宛へ。
それとは別に、書面を別途作成して「退会」する旨を通知しました。
この間、家人とは信仰について何度か話し合いを持ち、方向性についても確認しています。
講座受講中は団体名を伏せて、こんな記事を書いていました。
改めて名前を出して、整理について何を書こうか悩んでいたら、この過去記事でほとんど書いていました 笑。
ただ、整理したときの動揺を自身で読み解くと
・幼少時から学会員に育ててもらった恩があること
⇒恩をあだで返すのでは?という迷いがあった
・友人知人の多くは学会員だった
⇒退会することで今後かかわりを持つことがなくなるのでは?と思った
・親にどう話す?
⇒このまま隠せるものならと考えていたが、結果「話す」ことに
が代表例として出てきました。
わたしが創価学会に入会したのは5歳のとき。入会式はその当時お寺で行われた記憶があります(当時は日蓮正宗に属していた)。
父が早くに病気になり、わたしはクラスメイトと遊ぶほか、学会の会合等で面倒を見てもらうことも多くあり、少なからず「育ててくれた」感はあります。
その後の進学では創価大学通信教育部に進み、自身も学会活動に身を投じていました。
大学の友人も、一緒に活動する仲間も学会員。
それはもう、置かれている状況からすると仕方のないシチュエーションです。
つながりの基である学会を離れることによって、それらを否定ではないですが違う立場に立つということから、わたしもしくは周りの反応ががらっと変わってしまうことを恐れていた。
その感情を、見て見ぬふりをしていたのだろうと思います。
そのため、母親に話すのは当初ためらいました。
このまま隠し通そうかとも考えていました。
しかし、予期せず学会員が自宅を訪問し、このままでは自分以外の人間から耳に入るだろうと考えたので、今月初旬の週末に実家を訪れ、じっくり話をしてきました。
結果は、平行線に終わります。
わたしも、説得するという気持ちはなく、じぶんの気持ちや考えを「伝える」ことに徹しました。
当初は大波乱を予想して(というかそれしか頭に浮かんでこなかった)いたのですが、終始穏やかな流れで、しかしじっくりと、日が傾くまで話し合いました。
途中「今ならまだ間に合う」と思いとどまるよう促されましたが、わたしはやんわりそれを断りました。
帰り際、回覧板を届けると言って一緒に外へ。
気丈に振る舞っていた母でしたが、内心は辛く、悲しい気持ちでいっぱいであっただろうと思います。話のあとは敢えて母のほうを見ようとはしませんでした。
ここで断っておきたいのが、創価学会を退会した心境についてです。
単純に言うと
「大嫌い」
になって退会したわけではありません。
退会したということは
その教義は「正しい」ものではないという解釈に至ったということになりますし
さらに言うなら
宗教団体に属している意味がない
と感じたからです。
しかし、神様と言われる存在は信じています。
それを説明するのはたいへんですが、理由のひとつとして自身が体験したことに由来します。
だからといって、スピリチュアルに昏倒するという訳ではありません。
どこか、別の宗教団体に入会するということでもありません。
仮に「成仏」や「現世の幸せ」を目指すのが目的だとしても
この世界で言う「宗教」や
何かしらの「特別なスピリチュアル」を
修めていくのは自分にはおそらく合わない。
そう結論づけました。
現状は「個人」でそこを目指す。
「個人」を主体にしても、出来るはずだと考えています。
この部分の整理は、ほんとうに大変だったのだろうと今になって振り返ることができます。
状況が違えば、自分の家の宗教から身を退くことは「親不幸」と言われてもおかしくないと思っていて、それは宗教に限らず「別なこと」でも言えるのではと思います。
ひとは、自分が信じてやまないものを「これは正しい」「これは素晴らしい」と称賛します。これはやはり当たり前のことなのですが、ちょっと熱がこもると、自分が信じているものとは対称的なものについて「批判」「糾弾」して責めます。
その時は「それで」いいのかもしれません。
しかし覚えておいて欲しいのは、そういったものですら「がらっと変わる」ときが来るかもしれないということ。
わたしもそこまで出来た人間ではないですが、ガラクタ整理を通して今回宗教について考え、行動を起こし、そして整理をすることで「新たに」手に入れたものがあるからこそ公開できるのだと思っています。
ただ、これはあくまで個人的な見解です。
世の中には「宗教」や「スピリチュアル」が「必要」なひとはいると思います。
ひとによって「目的」や「手段」が、それぞれの環境で異なるだけだと思います。
その団体にとっては「大切なもの」であったとしても、
わたしにとってはそうではなくなりました。
だから、整理をしました。