足取りは重いながらも、塞ぎ込む時間が長期間になりながらも。
ふしぎと、前に進むことを選択していたような気がします。
まったくもって個人的な問題でどん底へ落ち、そこからゆるやかに浮上していくさまを日々実感しながら生きている。それはとても恥ずかしい反面、とても自分らしい生き方だなと思いましたし、これからは「落ちる⇔戻る」のふり幅を少しずつ小さくしていこうと感じました。
だって、やっぱり苦しいですから 笑。
出来ることなら、苦しい・辛いことなど経験はしたくないものですが、なかには「不可避なもの」「必ず経験しなければならないもの」もあると思います。それすらも拒絶しては、結局はなにも変わることも、何も変えることもできないのかなと思いました。
4月のイベント以降、物質的な「モノ」ではなく、自分の中にある「こころ=感情」の整理にふしぎと力を入れていました。
それらはとても時間がかかりました。色んな邪魔が入り(魔が差すという感じ)遅々として進まないこともあれば、先入観が自分を支配して体調不良になったりもしました。
しかしそこ(こころ=感情)をしっかり見ていかないと「今後も」見えないガラクタは溜まっていきますし、それこそ取り返しのつかないところまで行ってしまうかもしれない。
こういった「負の連鎖」を生む癖について、他人から指摘されると
「わかってるって!!!」
「関係ないでしょ!!!」
「もううるさい!!!」
「もう知らない!!!」
「()&」%‘&!!!」
と感情的に返事を返され、火に油を注ぐ状況になるのは必至。
しかし、誰かに逆鱗を触れられたからと言って、何かするわけでもなく。
棚上げにして何となく過ごしていく。
先延ばしにして何となく過ごしていく。
実害はないからと。
特に急ぐべきことではないからと。
いま忙しいからと。
いまそんな余裕はないからと。
めんどくさいからと。
じぶんには関係ないからと。
時期が来たらやるからと。
いろいろな言い訳を並べ立てます。
興味を他の所へ逸らそうとします。
見て見ぬふりをします。
これでもかというくらいに忘れようとします。
でも、ずっと残っています。
そして、水面下でからだとこころに影響を与え始めます。
それが活きることもあれば、蝕むこともある。
蝕みは病気同様「症状が表に出て」からはじめて事態に直面します。
そこから動いて果たして間に合うのか?という話になります。
そこで嘆いても、文句を言っても、やはり自己責任でしかないと思います。
ここまでじぶんのこころが反応して、体調を崩したり塞ぎ込んだのもやはり自己責任。
今後どうしていくかは、やはり自分自身にかかっています。
これまでの整理を踏まえて、本腰を入れて「こころの整理」に着手することを、決めました。
その整理が進んだからといって、何か目に見える変化は訪れないかもしれません。
しかし、体調や考えによい変化をもたらすことが出来ると、この段階では思っています。
心身症も、この整理で「よくなる」可能性だってあるわけです。
自分を治す、自分を癒すのは「自分」でしかない。
そこが出来上がっていないと、他のところからのアプローチも「カタチ」だけになってしまうと思います。
整体も、病院も、様々なワークも、宗教も、スピリチュアルも。
届くべきところに「届かない」状態が出来てしまう。
そうして「必要以上」の時間と労力をかけることになってしまう。
そうならないためにも、自分が自分を「癒し、治す」ための土台を構築する。
それが自分には必要だと感じました。
すっごく地道で地味ですが、自分がやっていることは
感情と思考の回路の確認と付け替え(仮)
になります。
とある出来事について自分が抱いた感情が土台となり「この出来事は○○」という思考が出来上がります(あくまで個人のイメージです)が、ここの「見直し」をはかるという作業になります。
物事によっては「感情的」に捉えているものも多くあり、そこから歪曲された「思考」が導き出され、アンバランスな状況を招いています。これらを丁寧に、また着実に「修正・アップデート」していくことで感情に流されにくくなり、本質を見据えることが出来る性質へ変えていこうというものです。
実際このワーク(仮)を行っていますが、フタを開けてみると「大事にしていた」「大げさにしていた」「そんな大したことではなかった」という事実が次々と判明します。その原因は過去に積み上げてきた極度の「感情的な思考」が偏った固定観念を生み出し、いつしかわたしをがんじがらめにしていたのだと徐々にわかってきました。
その実例が「親に創価学会を退会したことを話した」こと。
自分がこれまでに抱いていた思考とはまったく違う結果になったことで、ワークの成果が現実味を帯び、拍車をかけるようになったのです。
モノ&メンタル スペースクリアラー講座で、モノを整理しました。
そして、認定を受けた後、目に見えないモノの整理に着手しました。
そうして時間が経ち、少しずつではありますが、これからの「活きかた」が見えてきました。