とみーのグラウンディング日記

北海道・札幌市在住。伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

あなたへの想い。

先日、青春時代からたいへんお世話になっていた女性がこの世を去りました。

病気であることは聞いていたのですが、お元気なうちに逢うことはできませんでした。

それがとても心残りで仕方ありませんでした。

 

 

その方は千歳市で衣料品店を夫婦で営んでおり、当時バイト先の社長が用事を足しにそのお店に立ち寄ったことから、わたしもその店を利用しています。現在は経営を譲られており、悠々自適の生活と思っていたのですが、残念な結末になりました。

 

お店では主に旦那さんが話し相手になってくれたり、当時の店員さんとも閉店までお喋りばかりしていたり、暑い日には差し入れをしたり、逆にご馳走になったりと、お客という立場ではそんなに買い物は出来ていないのですが、ほんとうによく面倒を見ていただいたという思い出があります。

 

商品の説明は詳しい旦那さんが主にされるのですが、試着した時の印象をズバッと伝えられるのがその方というケースが多く、その方の一言で購入を決めたというアイテムも少なくありません。そのため購入した衣類もそれなりに年季が入っているのですが、今なお愛着のある、手放すことは一度たりとも考えたことがないものも多くあります。

 

そんな、お店の中での会話が、まさか最後の会話になってしまうとは思いもよりませんでした。

 

  

ご病気ということをかなり前に伺い、かつかなり病状は進んでいるということも併せて聞いていたため、お見舞いに行けるタイミングをずっと図りつづけていたのですが、その方の体調が悪かったりと都合がつかず、訃報を迎えるかたちとなってしまいました。

 

当初、お見舞いの都合が「ことごとく」つかない現状に、わたしたち夫婦間では「逢うタイミングではない」という流れだということで半ば諦めていました。ただ、可能性はゼロではないと言い聞かせていたのですが、結果は最後までタイミングが合わず。この展開に関しては当初「何かがそうさせている」と思わせるほどの展開でありました。それはお見舞いに伺うことが出来ないジレンマやがそうさせていたのだろうと思っていました。

 

訃報の連絡をいただき、葬儀の予定も教えていただいたのですが、その日程にはどうしても外せないスケジュールが組まれており、正直これほどまでにと思いました。自分勝手な考え方ですが、逢う必要のない人には逢わせないのではないかということまで考えてしまうほどでした。

 

 

 

泣きました。

泣きました。

声をあげて。

号泣しました。

咽び泣きました。

 

 

このままお別れを言えないのは嫌だ。

 

 

 

そんな勝手な想いから、旦那さんへ事情を伝え、葬儀前に弔問に伺いたいとお願いしたところ、快くわたしのわがままを聞いてくださいました。

 

 

その日は偶然にも所用で千歳市に出かけている日で、その所用が済んだ後に弔問に伺えるという流れになりました。ただ、先方も何かと多忙であるはずなので急な予定変更もありうると腹を括っていました。

 

その日の千歳市は、一言で言うなら涙雨とは表現できないほどの大荒れの天気で、雨も風もたいへん強い、車を走らせるのも一苦労な天候になっていました。お昼から夕方までに当初の用事は済んだのですが、スマホをミュートにしていた間に、やはり予定外の出来事が発生しました。当初の予定よりも早めに訪問して欲しいとの一報だったのですが、時既に遅く、仕方なく返信して再び訪問のタイミングを待つことに。結局当初の予定より数時間遅れで弔問に伺うことになりました。

 

 

訪問時、ご自宅には旦那さんと葬儀会社の担当のかたがいらっしゃいました。

先ほどまで人で溢れかえっていたそうで、状況が落ち着いて伺うことが出来たことに、ちょっとした安堵をおぼえました。旦那さんも既に覚悟を決めておられたようで、わたしがお邪魔している間はひとつも涙を見せることなく、素晴らしい振る舞いをされていました。

 

 

そして、やっと故人となってしまった奥さんに、挨拶することが出来ました。

故人となってしまいましたが、ゆっくりお話しすることもできましたし、これまでお世話になったお礼もたくさん伝えることができました。ただ、男がそこまで泣くなと言われるくらいの男泣きをしたので、心配させてしまったかもしれません。

 

お線香もあげ、業者の方が引き上げた後に、旦那さんと久しぶりの会話をしました。そして、病気が見つかった時の話から、闘病中の話に至るまで、ゆっくりと話してくださいました。驚いたのは、だいぶ前から「余命」ということばが使われていながらも、奥さんの生き様が「素敵」として言いようがなかったこと。人のために尽くすという行動が、このような状態でも出来るということが何よりも素晴らしく、わたしはとても良い人と縁を結ぶことが出来たんだなと思いました。

 

そのひとつの展開が、地元紙に記事として紹介されており、そこで元気な姿で写っている奥さんと、その行動とそれに共感された方たちのことが書かれており、間接的にではありますが、お元気な姿を確認することが出来てはいたのです。

 

その記事を何度も読み返し、そこで初めて知った病気の詳細に驚きを隠せずにいながら、奥さん宛に手紙をしたためました。当時出来ることはそれが精いっぱいで、可能性があるなら是非逢いたいということを手紙に込めていたのです。しかしそれも時既に遅しで、その記事が新聞に掲載した翌日には入院され、手紙を読むことなく旅立ってしまったとのこと。そのため、棺の中にこの手紙を入れたいのだという旦那さんの申し出を、快く了承しました。

 

 

滞在は1時間ほどでしたが、それよりも長い時間に感じられました。

それはひょっとすると、わたしの諦めの悪さに対して、奥さんが与えてくれた最高の配慮なのかもしれません。そんな想いを今でも噛み締めながら、わたしも恥じない生き方をしようと強く思いました。

 

 

わたしたちは、普段はこれが「最後の会話になる」と意識して相手とのコミュニケーションをはかることはまずないです。そのためとは一概に言えませんが、コミュニケーションをはかるツールも多岐に渡ってきたためか、逢うことも別れることもかんたんになり過ぎ、後から後悔するケースも増えてきているのではないかと思います。

 

これはもう感覚の話なのですが、ちょっとした出来事でかんたんにつながりを断つ傾向にあり、人とのつながりを場面によっては軽視していると思われることも。そして連絡が簡単につけられるからこそ、余計に「これが最後かも」という気持ちは薄れているのではないかと思っています。

 

でも、それを接したすべての人に当てはめる必要はないと思います。

だって「あの時が最後の会話だったら」と思わせる人は、誰にとってもひと握りであるはずですから。ただ、ほんのひと握りの人でも、悔いの残らない交流や会話をしていくことは少なからず必要だと、改めて思いましたし、その方が教えてくれた気がします。

 

 

 

 

 

わたしの場合、そんな「ひと握り」の人の中に「父」がいます。

 

父はわたしが中学のときに病気で亡くなりました。

その日のことは、今でも鮮明に覚えています。

父が発した、最期のことばも憶えています。

 

父は糖尿病の治療を行っていて、容体が急変した時も透析の最中でした。

容体が急変することなど、まったく頭にありません。当然ですよね。

まさか父が死ぬなんてこと、考えもしなかったのですから。

 

容体が急変したその日のうちに、父は亡くなりました。

当時のわたしは、ただただ泣くばかりでした。

涙が枯れるまで泣いたというのくらい、しばらく泣いていました。

 

それは突如逝ってしまったことに対する驚きと、親孝行をしてあげることが出来なかった悔しさなど、かなり入り混じるものがありました。そして当時は真剣に夢枕に出てきてほしいと願っていました。幽霊でもなんでもいいと(笑)結局、他界してから25年以上経ちますが一度も顔を見せてくれたことはありません。

 

 

 普段から「これが最後の会話になるかもしれない」ということを意識するのはとても難しいことです。それでも、後悔したくないと思うならば、普段の接し方を少しずつでも変えてゆくしかないと思います。

 

 わたしも、たくさんの反省と後悔を重ねてきています。

それを挽回することはもうできないかもしれませんし、その機会を与えてくれることを許してくれはくれないかもしれませんが、少しでも後悔の念を減らすことができるよう、地道な努力をしていきたいと思います。

 

  

自らつながりを断った人もいれば、予想外の出来事で連絡をつけることが出来なくなった人もいます。この日常に予期せぬ出来事があるということを肝に銘じたいと思います。

 

 

今日は七夕。北海道では翌月の7日が七夕ですが、この日は亡き父の誕生日でもあります。

ケースはそれぞれ違いますが、身勝手な振る舞いで広がった天の川ほどの距離を、想いを伝えること、そしてわたしの振る舞いを後悔のないものへと変えていくことで、少しでも縮めたいと思いました。

 

 

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故人がすすめてくれた、わたしの相棒。

フライトジャケット TYPE A-2

旧リアル・マッコイズ製 RWAバージョン

Made in New Zealand