昨日の出来事ですが、久々に試写会に応募して、それまたそれが当選したので、狸小路に行ってきました。
試写会で観た映画は「聲の形(こえのかたち)」。
試写会当選のハガキ。HBC主催で観てきました。
アニメーション映画となり、原作も漫画なのですが、賞を受賞したこともあってか、その名称だけは覚えていました。
映画公式サイト:
ストーリーはぼんやりと覚えていたのですが、あまり先入観がない状態で鑑賞。
その結果、かなりな衝撃と、かなりの衝動を感じることになりました。
「聲」も忘れるなよと、言われているようでした。
物語の中心となるのはふたりいて、そのうちのひとりは「耳が聞こえない」女の子。
その子が舞台となる小学校へ転入するところから話は始まります。
まず、この展開の描写に驚きました。
アニメとはいえ、児童の驚きと戸惑いの表情。
そこからでも、仲良くなっていく様。
そして、綻びが生まれてくる。
その一連の流れは、想像に難くない展開でした。
物語の主軸となる部分ですが、この「耳が聞こえない」女の子は、当初は周りと仲良くなるものの、コミュニケーションなどが「違う」ことに対して周りがストレスを感じ始め、徐々に疎遠になっていくのです。
これは一概に「○○が悪い」とは言えません。
しかし、そういった人もいるということに対して無知であるということも否めないのですが、その無知が引き起こす数々の「辛く苦しいこと」は、無情にもその子に突き刺さるのです。
それは立派な「いじめ」でした。
その子は、おそらくその状況がわかっていたはず。
でも、仕方ないことだと思っていたのかもしれません。
それでも、仲良くしていこうと考えていたはずです。
何となくですが、アニメですが、その表情から伝わるものが痛いほどよくわかりました。
そのいじめには「複数」が関わっていたのですが、とある出来事がきっかけて「たった一人」のガキ大将的な児童が「いじめの犯人」に仕立てられます。それが、主人公のひとりとなる男の子です。
その男子はその後、周りから孤立します。
その影響は中学にも影響し、心に暗い影を落とし、高校まで引きずります。
周りの人の顔をまともに見ることが出来ない。
その気持ちが、わかりますか?
周りの人間が自分のほうを見て何か良くないことを言っているのではないかと怯えてしまうのです。自分のほうを指さして何かからかっているのではないかと怯えているのです。自分に対しての悪口が囁かれているのではないかと気が気でないのです。
これまで誰かを「いじめて」きたことがあるひとには、その辛さや苦しさがわかるでしょうか?
わたしは「いじめた」ことも「いじめられた」ことも、両方経験あります。
それは以前かいた日記に記載済みです。
「自業自得」だと思う人もいるでしょうが、それは「この人」にだけ起きることではありません。誰にでも「平等」に起こることだと知るべきだと、わたしは思います。
わたしは、双方の気持ちがわかりました。
特に、いじめられる側の辛さは半端じゃありません。
だから。
単純にこの映画を「面白い」で観て欲しくないと思いました。
これは切実な「声」だと感じました。
しかし、この映画は「いじめはダメ」ということを伝えたい「だけ」の映画ではありません。その奥にある、もっと大切なことを伝えたいがための「いじめ」という描写があり「耳が聞こえない」という設定があり、心が締め付けられるくらいに「苦しく辛い」という傷があるのではないかと感じました。
この映画はオリジナルストーリーなのかどうかはわからないのでネタバレは控えますが、仮に実際の話ではないにしろ、描かれている光景はどこにでもあり得るものであるし、そこから回復(復活)していくストーリーには「想いの強さ」を感じます。
交友関係で悩みつつも、真正面から向き合い、そこから逃げる判断をせずに「声を出す」ことの勇ましさに、思わず鳥肌が立つほどの震えを覚えました。果たしてあのとき、自分にはこれほどの勇気があっただろうか、と。
学生時代や会社員時代、そして現在に至るまで。
自分を卑下して諦めたり、何かしらの言い訳(理由ではありません)をつけては退いたり。
それは、やっぱかっこ悪いってことに気がついた。
~~
人間誰もは一度は反省すべきことを経験する。
それを省みずに自己の欲求や幸福ばかりを追求するのは、本筋から離れている。
それは「楽しいこと」ばかりを見て「辛いこと」「苦しいこと」から目を逸らしているからだ。
苦しみは、誰もが必ず「背負うもの」という感覚を、この映画を観て覚えた。
この経験、あの経験をすることで、これくらいの苦しさを「背負う」。
それはある程度「設定」されていたものかもしれないが、幾つかの選択肢の中から「選んだ」ものかもしれない。
しかし「苦しみ」をわからなければ決して見えないものがある。それを見ないふりにして、もうそんなのは嫌だからと先延ばしして、目の前に転がっている充実や幸せを手にするのは、早い話が「苦しみの蓄積」になっていると思う。
苦しみからは一生解放されないかもしれないが、解決すべきことはこの人生にはある。
それを蔑ろにして自分の欲求ばかり追い求めていても、人生のやり直しが待っているだけ。たとえ「成仏する」というのがわかっていたとしても、自分にその出番は「いつまでも回ってこず」に、ただ知っているだけという負の連鎖に縛られるだけなのではないだろうか。
この映画では、自らが背負った苦しみを解放すべく、勇気を持って「踏み入れて」いる。
その姿を見て、ああ、書くだけではダメだ。ちゃんと声にしなきゃって思った。
書いて伝えるだけではなく、声に出して伝えていくことも鍛錬が必要だ、と。
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声の元々の漢字である「聲」について、映画の上映前にHBCの宮地アナから説明がありました。相手の「耳」に届けること。それもまた、自分にとってはとてもとても必要な「やるべきこと」と感じました。
うん。感情のままに書いたから、ちょっと文章の組み立て変かも(笑)
まぁいいや、そんだけ想うことがあったということにしよ。
「聲」に出してみないとわからないことなんていくらだってある。
仕事だってそうだし、交友関係、親子関係、夫婦や恋愛関係だって。
相手からの「聲」を待つばかりで果たして解決するのか?
自分からの「聲」を出すばかりで果たして発展するのか?
何だかそれは、伝えることの本質を忘れているように思う。
それを忘れたままでは、人生は何も進まない。やり直しが待っているだけ。
そう思わないかな?
-わたしが聲を出して伝え、届けるためにはどうすればいいか-
そんな想いを胸に引いたカードが
No.50「錬金術」だった。
キーワードは「自然の魔法」「変質」「改革」「バイオレットの光線」
このカードを見た時、ああそうかと思わず納得してしまった。
変えていかなくてはいけない。
変えていくことで聲は、唯一無二の強さと暖かさを発揮するのだと思った。
ブログでの「ことば」の他に、現場で「聲」を出して届けること。
それが「師の求めたるところ」なのだと改めて思いだした。
相手の聲を待つあまり、自分勝手に苦しんでいる。
自分の聲が届かない、伝わらないと思うあまり、自分勝手に責めている。
このネガティブ満載の思考や感情を手放して、今与えられていることをやろう。
今、やるべきことをやろう。
それが、来るべきときに「必要なことをする」ための準備になるから。
まだまだ打ちのめされることはたくさんあるけれど、立ち止まらないようにしようや。
決めたんだろ?
だったら、進もうや。な?
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