千葉県にある瞑想合宿施設「ダンマーディッチャ」。
昨年の夏、個人的にはただならぬ決意と覚悟を以て瞑想の修行に参加することを決め、身を投じました。
到着日は夕方からオリエンテーション並びにガイダンスがあり、消灯までの間に瞑想を実際に行いました。施設内のレイアウト等は翌日以降に確認することになるのですが、右も左もわからない、言葉も発してはいけないという環境下で「この時点」では不思議と落ち着いていたような記憶が残っています。
それはもう「やる」と決めたからでしょうか。もう「退かない」と決めたからでしょうか。
何かを手に入れたいというよりも、ここで脱皮するくらいの気持ちでたように思います。
翌朝。
ぼんやりと暗い時間に銅鑼というか、起床の鐘が鳴ります。
その時間、午前4時。
目覚まし時計の持ち込みは認められていますので、この鐘と時計のアラーム音で目が覚めます。
しかし、いきなり早起きなんてなかなかできる訳がありません。瞑想を行う時間はまだ少し後なので、ゆっくり目を覚ましていきます。
1日の始まりの瞑想は、夜明けにさしかかる時間帯から行われます。
ただ、瞑想を行う場所は自分のベッドの上や瞑想を行うホールなど、比較的自由です。お手洗いに行くことも制限はされていませんが、極力瞑想に時間を割くよう指導が入ります。
最初に指導された瞑想方法は、事前に受けた方法とまったく一緒でした。
その分、多少なりとも余裕というものがあったかもしれません。
特にペースを崩すこともなく、ひたらすら手順に沿って瞑想を行っていました。
すっかり朝になってから、朝食の時間に入ります。
食事の制限は特になく、各々が好きなだけ食べるというスタイルです。
その食事にも瞑想合宿時のルールが入るため、お肉やお魚等の食材は入りません。
調味料等はわかりませんが、見た目はベジでかなりヘルシーな食事になります。
その食事もよく考えられていて、同じ食べ物が毎日出る訳ではなく、効率的に食材を使用することができるよう、和・洋・中のローテーションで提供してくれています。
ご飯は白米と玄米両方用意してくださったり、フルーツも用意してくださったりと、食事に関しては特に不足を感じることはありませんでした。ただ当初は「座る」ことが一日の行動の中心になるので、そんなにたくさん食べなくてもいいだろうと考えていました。最初の数日間は食事の量を減らし、少しでも断食に近い環境を創ろうとしていました。
朝食の後は、短いながらも自由時間が設けられます。
その間に洗濯やシャワー、歯磨きなど、自分でやるべきことを済ませます。
ただ、設備の数も多くはないので時間帯によっては順番待ちが生じます。そうなってしまうと自由時間も有効に使うことが出来なくなるので、かなり効率よく動き、時間を使うようになります。ひとつのことに多くの時間を使わず、必要最低限に留めるといった感覚でしょうか。それを徐々に掴んでいきました。
そして午前9時くらいから、再び瞑想に入ります。
合宿中は瞑想⇒食事⇒自由時間⇒瞑想といったサイクルや、
瞑想⇒小休止⇒瞑想⇒自由時間といった流れで合宿が行われます。
おおよそ1日のタイムテーブルは一緒で、事前に鐘などで瞑想の始まりや、アシスタント指導者からの話で明日の予定を通知されることもあります。そのため参加者は特に何も考えることなく、周りのサポートで動くことが出来るという環境にあるのです。それでも自分でしか出来ないことが多少ならずともあるので、自身の生活サイクルからどの時間帯に何をすべきかというのは自然に組み立てが始まります。それだけ、無駄を省くという姿勢が求められていたのだと思います。
比較的余裕のあった状態で、ふと頭に浮かんだあることに対して起きたことが、今でも不思議でなりません。
それは、初日(到着日の翌日)か2日目の午前中、瞑想をしている時間帯での出来事でした。
瞑想をしている間は、目を閉じます。目を閉じない瞑想方法もあるようなのですが、ヴィパッサナーでは目を閉じ、じっとその場に居続けます。姿勢は自由ですが、極端な、瞑想に向かない姿勢は指導が入ります。基本というか、普段は座禅に似たような感じの姿勢や正座、あぐら等が主流です。
そのような感じで瞑想をしていたところ、ふとこんな疑問が頭の中をよぎりました。
「ぼくはこの合宿を無事終えることが出来るのだろうか」
素直に考えると、無理もない問いでした。
だって、この先瞑想漬けの毎日になるわけですし、10日間とはいってもかなり先の日にちに感じました。瞑想だけやっていて何が変わるのか、それとも変わらないのか。何かを手に入れるのか、それとも手に入れないのか。そもそも10日間、精神と肉体は保つのか、など、考えたらきりがありません。
この時点では何ら不調を訴える部分もなかったので、却ってその疑問が暗雲を呼び込むことになったのですが、この自発的に生まれた疑問に対して、予想外のところから返答がやってきました。
まず、その返答というのが
「It’s a piece of cake.」
という返答でした。
このセリフは以前の日記やタイトルにも使いましたが、和訳としては
「朝飯前(意訳)」
といった意味合いになります。
じゃあ、この返答は誰がしたのか。
ぼく自身?
それともサポート役のひとたち?無意識に声に出していた?
それとも、天からのお告げか何かか?
答えは、鳥でした。
鳥の啼き声が、そのように聞こえたのです。
頭オカシイでしょ(笑)
でも、本当なのです。
ぼく自身、聴こえてきた声に驚き、その前後の出来事を整理して、また驚いたのですから。
一瞬、何が起きたのかはわかりませんでしたが、整理してみるとおよそ次の手順で事が起こりました。
疑問を抱く(頭の中で考える)
↓
外で鳥の啼き声がする
↓
鳥の啼き声が聞こえる
↓
その音を「鳥の啼き声」として認知する
↓
認知したすぐ後に、追いかけるようにして鳥の啼き声が「ことば」を発したと認識する
↓
そのことばを理解する
↓
パニくる
↓
順序の整理を行う
↓
シンジラレナ~イ(トレイ・ヒルマン監督風)な状態になる
順序が正しいかはわかりませんが、鳥の啼き声が聞こえたなぁと思った瞬間に
「IT’s a piece of cake.」
ということばが聞こえました。それは鳥の啼き声が聞こえた、同じ瞬間に聞こえています。
そのため、その一瞬の出来事を振り返ったときに、ぼくはその声が「鳥」から聴こえたものだと断定しました。未だに信じられませんが、事実なのです。
その理由としては
・その声が聞こえたのは瞑想中で、当時ホール内にいたため誰も声を発していない
というのが挙げられます。
もちろん、くしゃみや咳き込む音くらいは聞こえますし、誰かが発する可能性はあります。
でもそれくらいで何かことばが聞こえたなと認識することはまずありません。
加えて、声を出してもよい立場の人がこの時間帯ではいませんでした。その方たちも会話は必要最小限に留めてあるので、日常会話などもしないように配慮してくれています。
以上のことから、あの空間では普段ことばは聞こえることはなく、ましてや瞑想中にことば、しかも英語が誰かから発せられるということは考えられませんでした。外国人の方も参加はしていましたが、いま思おうとその声は男性か、それとも女性かの判別をしていませんでした。純粋に「聲」だけがクローズアップされていました。その事実だけが、自分の中にありました。
かる~くパニックを起こし、その英語の意味をほどなくして理解したぼくは、その粋な計らいに感謝というか、笑みを浮かべずにはいられませんでした。
もともとこのことばは「宇宙兄弟」という漫画の中で使われるセリフで、ぼくもそのセリフがとても気に入っていたので記憶に残っていたのです。
それがまさか、という衝撃はありましたし、それを知ったうえで誰かが投げかけてくれることは考えもしませんでした。それを知っている存在がいたとするならば、それは人知を超えた存在に他なりません。しかも、その存在は仰々しく顕われたのではなく、身近にいる「鳥」そういう存在をお遣いになり、ぼくに疑問に対する聲を届けてくれたのだろうという考えになりました。
仮にその答えが「人」から聞かれたものだったとしたら、斜に構えていたかもしれません。
意外なところから聴こえたからこそ、素直に受け止めることが出来ましたし(混乱はしましたが)、ああ、そのような存在が言ってくれるのならという気持ちになり、却って安心しました。だからといって努力を怠るわけではありません。必要な努力を重ねることはもちろん求められます。その上での「It’s a piece of cake.」なのだろうと思います。
ぼくは霊感も超能力もありませんが、ごくたまに摩訶不思議な現象を体験することがあります。今回はまさしく、現象というよりかは「恩恵」に近いものを受け取ったような気がしました。
こういったことに興味津々だったころは、このような能力を身につけようと試みた時期がありました。それが身についたかどうかはわかりません。確実に言えたことは、自身にある「アンテナ」の受信感度がやや高く、様々なものを受け取ってしまう傾向にあるため、頻繁に体調を崩すようになったということです。
その後様々なアドバイスをいただき、受け取るものに打ち負けないようにこころとからだを鍛えるようにしました。これを維持していくことで、体調を崩さないようにもなりました。
今回の瞑想も、色んな目的はありますが、ぼくの中での目的のひとつが「アンテナに負けないこころづくり」というのがありました。それはスポーツや仕事同様、短期間で修得できるものではありませんし、継続していくことがとても大切です。仮に特殊な力があるからと言ってもそれは同様で、慢心はその力の純度を落とします。天性の才能であったとしても、そこにあぐらをかいてしまっては、結局は宝の持ち腐れだということができます。
もし仮に、周りにそのような人がいたとしたら。
それが数多にいる能力者の判別に一役買うことになるかもしれません。
ふいに受け取ったメッセージ。
それは、人知を超えた存在からの啓示でした。
啓示というよりも、これこそ「愛」に他ならないかもしれません。
事のあらましを咀嚼して理解したとき、やる気というよりも更に力んでいたものが緩まった感覚を覚えました。
それは、これから体験する様々な苦しみに屈しないための、サムシング・グレートからのエールに他なりませんでした。
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