何気にテレビの番組表をサーフィンしていると。
「流星放送局」
というのが目につきました。
番組案内を読んでいくと、どうやら今夜はふたご座流星群が見られるとのこと。
どんな番組か、生放送でしたが視聴してみました。
番組の中身としては各地の天文台や海外の空、そして、流れ星をテーマにしたミニドラマを放送。アーティストによる生歌も交えながら、流星が表れるのを待つというコンセプトでした。
どうやらこの番組はスマホと連動しているようで、ぼくも番組HPにアクセスしましたら、番組が放送されている河口湖の上空を映すようにプログラミングされているようで、部屋の中にいならがらにして、流星が見えないかを探すことが出来る仕組みになっていました。
そして面白い趣向として「じぶんの願いを流れ星のようにテレビ画面に流す」というもの。
ぼくの願いが流れたかどうかは確認できませんでしたが、ほんとうにたくさんの「ねがい」が、テレビ画面に流れていました。
この番組を見て思ったのは、流れ星に祈る、または願うという行為はいつごろからあったのだろうという素朴な疑問と、どんなに文明が発達しても、流れ星に向かって願いを届けるという行為は連綿と続いているんだなということ。
どこからか聞いてきたのかは定かではありませんが、流れ星が見えなくなる前に願い事を3回唱えると願いが叶うという話を聞いたことがあります。それって結構難しい話なのですが、とても懐かしい記憶が甦りました。
テレビ画面を通してですが、みんなのねがいを見て思ったこと。
それは、何だか初詣に行って手を合わせた際にねがうようなことと似ているなということ。
それはある意味、とてもシンプルで、とてもステキなことだと思いました。
もし願いが叶うならという話は、考えれば考えるほど複雑に、そして多彩になります。
しかし、考える時間をさほどかけずに放ったことばは、純粋なものそのものになります。
簡素かもしれない。ことばが足りないかもしれない。うまく言えないかもしれない。
それでも、そこに込められたことばは、いちばん輝いているのではないかと感じました。
願いは、口に出して言ったほうがいいという話があります。
いまや発言の多くは、実際に口に出して言うよりも、じぶんの中に留めたり、ネット上での発言になってしまったりと、なかなか音声化されない流れになってきています。
そのために、というわけではありませんが、口に出さなかったがために、妥協したことはなかっただろうか、諦めたことはなかっただろうか、伝わらなかったことはなかっただろうかと、いろいろ考えてしまいます。
ぼくは、後悔のカタマリです。
そのカタマリは、いまも生まれ続けています。
後悔を生み出すことを止めることは、どうやらそうかんたんに行きそうもない。
でも、どっかでそれをストップさせないと、やがてぼくは押しつぶされるだろうと思う。
そうならないためにも。
いま、できることをやる。
必要なことを選ぶのではなくて、降りかかったあらゆることを。
きょう引いたカードはNo.11「気づき」でした。
キーワードは「自覚」「認知」「知覚」「理解」
ぼくにはかなえたいねがいがある。
それを「自覚」しています。
それを「認めて」います。
それがどんな内容なのか「理解」しています。
そのねがいに対するこころの本音を「知覚」しています。
この夜空のように、こころも広くして、流れ星が見えるような視線でいたい。
視野が狭くなると、ものごとの変化に気づかないこともあるから。
ふたご座流星群は、1年に起こる流星群のなかでも長時間にわたり流星が確認できる現象のようです。
ぼくがいる場所とは離れた、海が近くにある街に住んでいても。
風邪をひいて寝込んでしまっている、その頭上でも。
カメラを向けた、その先にでさえ。
ひとしく、星は流れていますよ。
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