きのうは、長い記事を書きました。
長くなってしまったため、装飾は必要最低限にしてしまいました。
だって、午前0時がもうすぐだったので(汗)
書いてみると、なかなか書き終わらないというのが本音でした。
あれも書かなきゃという気持ちが後から後からどんどん出てきて、かなりなボリュームになってしまいました。
昨日の記事
この記事は札幌サドベリースクールの代表にもお伝えしました。
サドベリーにいる木育マイスターの同期にも連絡しました。
夜になって返信を確認しましたが、過分な感想をいただいていました。ほんとうにありがたいことです。涙がちょちょぎれる想いです。
そして意外だったことがひとつ。この記事をシェアしていただきました。
当初はスタッフのかた向けに書いた文章が、その範囲を広げることになりました。これは自分ではまったく予想もしていなかったことで、ちょっと昨日の記事をもう少し見栄えよくしようか悩んでしまいます(笑)。でもでも、ぼくの文章を評価してくれたことはたいへん嬉しく思いました。変化は自分でも感じていましたが、よいかどうかは判断できなかったので、他人からそういった声(たとえお世辞であっても)を聞くことが出来たのは、頑張りに対する「恵み」に他ならないな・・・と感じていました。
そんな余韻を持ちつつ、先ほどひとつの映画を観ました。
タイトルは「神去なあなあ日常」
特設サイト
三浦しをんさんの作品は多数読んでおり、とても気に入っています。
今回の作品もそのひとつで、林業に視点を当てていること、そして田舎にも視点をあてていることが、とても興味深く、そして、とても大切なことだと感じました。
原作も読んだことはあるのですが、映画はやはり、映像に力があります。
映画を撮影したところは三重県のようですが、その自然や林業の営みを映像を通して観たとしても、鳥肌が立つほどの畏れ多さ、そして厳粛でありながらも、その空気にびびることなく楽しんでいる。そのような光景が印象的でした。
印象的なシーンがありまして。
主人公の高校時代の友達の頼みで、その友人グループが地方の暮らしと林業の見学にやってきたときのこと。
木を伐採する様子ももの珍しく、ヤベーよヤベーよ(出川さんじゃなく)と連呼していました。
そして野外でバーベキューとなった時に、主人公に対して「よくこんな場所で生活できるね」といった主旨のことを言い放ったのです。それは詰るところ、都会の暮らしはこんなに楽しいのに、何でわざわざこんなとこに研修でも来るわけ?意味わかんないし(ちょっと大袈裟かな?)。
といった具合。
主人公の友人グループからしたら、舞台である神去村のような田舎は「生活出来ない」場所と断定し、リゾート的なイベントでしかこんな場所にはこないよ、といった雰囲気満載のシーンでした。
これに対し、主人公は友人グループのひとりのカメラからフィルムを抜き取り、投げ捨ててしまいます。そしてひとこと「帰れ」と言い放ちました。もちろんこれに対し友人グループは激高。速攻でその場を立ち去りました。
この場面は、主人公に訪れた「大きな変化」を象徴するシーンだと思っています。
主人公は都会育ちで、不純な理由で林業の研修を受けることになりました。
しかしそんな中でも、現地の人との輪(和)を築き、文字通り一生懸命毎日を生きています。これはおそらく、都会に生きる人との感覚は異なるのではないだろうかと感じました。だからこそ「楽しい」ということばにのみフォーカスされたり、生活できるできないといった、わがままな感覚だけでものごとを判断するのだと思います。しかしそれで実際生きていけるのですから、日本という国は優しい、もしくは甘やかしている国なのかもしれません。
その後、主人公は村人に認められる(慕われる、親しまれる)人になります。
このあたりが映画らしいところですが、主人公の友人たちが蔑んでいた「田舎」に来たことで、からだもこころも大きく成長するという展開になりました。その姿を、立ち去った友人たちが見たらどう思うでしょうね。ひょっとしたら、何も思わないかもしれません。仮にそうだったとしたら、とてもかわいそうなことだと思います。
昨日の記事に連動するような感じになってしまいますが、ひとによって、都会であったり、田舎であったりと「居心地がいい」場所は異なります。そしてそれは自身に与える影響の違いでもあります。ほんとうは田舎がその人にとってはいいはずなのに、当の本人は都会から離れることは自殺行為だと認識している場合もあるかもしれません。しかしその考えが「正しい」保証はどこにもありません。結局は利害を表面で考えただけの判断にしかなっていないと思います。
それは「育てる」現場においてもどうようだと思います。何がそのこどもにとって良い教材となるかは、わかりません。やってみるまではわからないと思います。最初から正解なんてものはなく、そもそも正解すらない中で、こどもに適した教材を見出すことはとても大変なことです。スマホで検索してからといって見つかるわけでもないし、口コミを読んでやらせても評判通りの展開になるとは限りません。何が起こるのかは、やってみないとわからないのです。これは計算でできることではありません。評論家の出番でもないです。だって、そもそも何が正しくて何が間違いかを考えること自体、ひょっとしたらナンセンスなのかもしれないのですから。
そしてそれは、こどもに限らず大人にも当てはまります。
大人の世界は「常識」をこれでもかというくらい「枠」にはめようとします。
その常識は「世間」の常識のほかに、その人特有の常識であったりします。
そうなると、常識の基準はわからなくなります。しかし、人はその常識に当てはめろと言ったりします。そうなるともう、無法地帯です。常識とことばに出して言っているものの、常識の枠をわかっていない、ほんとうに理解していないだけの無責任なことばに成り下がってしまっていることを、その人は知らないのです。それこそ、非常識極まりないということになるのだろうと感じています。
そう考えていくと、常識はひとつのフィルターなのかもしれません。そこで選別し、そこから自分にとって「益」となるものだけを取り出してゆく感覚なのかもしれません。でもなんとなくですが、それは「ずるい」ようにも感じます。加えて言えば、それは「何の解決にもならない」ことだと思います。だって、自分を成長させるものは、フィルターを通さずに残ってしまったものであるのかもしれないのに。
何がひとを成長させるかは、やる前からはわからないことが多いです。
都会には都会の、田舎には田舎の便利なところがあり、不便なところがあります。
だからどちらが良くてどちらが悪い、ではなく、その人にとってどちらが適した環境なのだろうということを、真剣に考えて欲しいのです。良し悪しで判断してしまうと、絶対に大事なものを見落とします。大事なものこそ、目には見えません。それは名作「星の王子さま」に記されてきました。
昨日の日記、そして、今日見た映画。
なんだか無関係のようで、実はつながっている。
そんな実感を、映像を通して観る大自然に感じました。
きょうまでに読んだ本
帰ってきた星の王子さま ジャン=ピエール・ダヴィット 矢川澄子訳 メディアファクトリー
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