つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

旅の終わりが、少しだけ見えてきた日。~ダンマの思い出⑨~

瞑想合宿も、佳境に入りました。

 

 

 

ヴィパッサナーの日を迎えてからは、瞑想をする際の意識の向け方が細かくなりました。

 

からだを動かすことを極力控え、瞑想という行為に大幅な時間を割り充ててきていますが、不思議と体力の低下と空腹感が強くなります。

 

 

 

ただ座っているだけ。

しかし、集中という行為を続けている。

 

 

 

そのようなことが体力を過分に消費し、食欲を引き寄せるなんてことは、まったく想像しいていませんでした。

 

よく考えてみれば「ああそうだよな」となるのですが、「体力が減る」「お腹が減る」メカニズムというか、仕組みというのがシンプルに感じ、わかってきた時期でもありました。

 

 

 

 

 

 

 

瞑想合宿の後半は、その密度が一気に濃くなりました。

密度が一気に濃くなったことで、いい影響が生まれました。

それは前半に比べ「瞑想のことを考える」時間が増えたこと。

前半はそこそこ余裕があったので、弱音を吐いたりしていましたが、後半になってからはそんな余裕もすべて瞑想について考えることに充てていました。これって不思議ですね(笑)

 

瞑想合宿の後半こそ、純粋に瞑想をすることが出来る環境を得ることが出来たような気がしてなりません。無心になるくらい、不安や心配を排除というか、気に留める余裕すらない、またはそれすら気に掛けることはなくなるくらい、合宿を満喫(笑)することができるようになったと思います。

 

 

 

 

 

 

そんな濃密な時間を、わずか数日でしかなかったのですが、過ごしていきました。

 

瞑想合宿を始めた頃は終わりを迎えるまでの日数を数えていましたが(汗)、後半になるとそのような癖(または往生際が悪い?とも言う)は霧のように晴れていきました。さすがに最後の最後では残りの回数を数えてしまいましたが、最初の心境とは180度異なるものでした。

 

 

 

 

しかし、最後までわからなかったのが夜に行われる「講話(法話)」。

 

この話の時間が意外にも長く、瞑想よりも集中力を欠いてしまいます(汗)

 

もちろん、1日1話としても10のお話があるため、その全てを覚えておくのはかなり困難ですし、その内容なども理解していかなくてはならないため、1度の話しではそうそう落とし込むことはできません。アシスタント指導者も「何度も聴いていくことが大事」とお話をしていらっしゃいました。瞑想も継続することが必要ですし、必要なお話は繰り返し聴いていくことが必要。つまりは「継続は力」ということになるでしょうか。その時は今後続けていくことなど考える余裕すらありませんでしたが、いま瞑想だけでも継続していて思うことは、あの時よりも何かわかることがあるかもしれないという、漠然とした自信があります。瞑想を続けてきたというのがその根拠になるのですが、その一言で表現できる何かが、そこにあるような気がします。表現するのは難しいことですが。

 

 

 

 

ここまで書いていくと、1日を通してずっと「頭を使う」作業をしていたことがわかりました。瞑想に限らず、講話(法話)でも理解するために頭を働かせてきた。その甲斐あってと思うべきなのでしょう、消灯時間は21時30分頃(遅くても22時)だったと思うのですが、思いのほか寝つきは早かったように感じました。もう、バタンキューです、文字通り(笑)

 

 

 

 

 

そうしていくうちに、合宿終了目前のところまで無事にやってきました。

ここまで来ると、感慨もひとしおです。

数少ない瞑想の時間を、もっと大切にしていこうと思うくらいです。

 

 

 

 

 

 

そして、ひとつのアナウンスがされます。

 

それは、合宿中の戒め(ルール)を事前にひとつ解除するというもの。

 

 

 

その戒めとは「コミュニケーション」でした。

 

 

 

合宿瞑想を終了する前に、事前にコミュニケーション(主に会話)を解禁して、日常行動に少しずつ慣れてもらうというのが狙いのものでした(コミュニケーションは同性間のみだったはず)。

 

その他の戒めは終了まで有効となるのですが、1日の中で声を出すことがほとんどなかった(または一言も発しない日もあった)ため、第一声を発するときはちょっと緊張しましたし、話をしてもいいよと言われたのに「声を出してもいいんだよね?」「話をしてもいいんだよね?」と、声に出して確認するという展開に(笑)

 

その雰囲気に慣れたあとは、一気に瞑想中のあれこれをみんなでわいわい話すようになりました。もちろん瞑想中は会話禁止ですが、それ以外の時間会話はOKで、解散となるまでの短い時間でしたが、とても新鮮で、とても清々しい気持ちになることができました。

 

 

 

 

 

 

このような「制限」は日常生活にも当てはめることができます。

 

小さい頃だと「ゲームは1日2時間まで」とか(笑)

大人になると「お酒はビール1本」とか(汗)

何かと条件、または制限を設定していると思います。

 

ここしばらくの間参加していませんが、座禅断食を行っている間は食事は抜きます。水かお茶(ノンカフェイン)、または塩を少量口にするだけといった生活を行います。その後制限を段階的に解除していくのですが、とてもありがたみがわかります。これと同様に瞑想合宿中の戒めの解禁も、とても嬉しく感じることでした。

 

 

 

それは「我慢」ではなく「辛抱」だったかもしれません。

命の授業を行っているゴルゴ松本さんも仰っていましたが、我慢よりも辛抱がいいとお話されていました。字面もそうなんですが、漢字に込められている意味に大きな違いがあるとのことなんです。

 

 

かんたんにいうと、「我慢」はネガティブ。「辛抱」はポジティブなんです。

 

 

普段何気なく使用している言葉ですが、似た意味として使ってしまっていることばにも、ほんとうの想いや意味、祈りのようなものは込められているんだということを教えてもらいました。そのためでしょうか、自分が伝えていくことばも、より多くの人に伝わることば、届くことばを紡いでいこうと考えるようになり、実践を続けています。これはもう終わりのない行為なのですが、いまは回りくどい表現でしか伝えることが出来ない内容でも、どんどんシンプルになっていって、より伝わりやすくなる、より届きやすくなるようになっていけば御の字だと感じています。そこを目指すためにはもちろん、大いなる土台が必要です。天性の才能でもない、大いなる存在からの大いなる恵みでもない。圧倒的な自分自身の努力が必要だと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戒めのひとつが、解禁となりました。

戒めが解かれるということは、この合宿も終わりがすぐそこまで来ているということ。

 

その実感もないまま、最終日を迎えることになりました。

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

エコツーリズムを学ぶ人のために 真板昭夫 石森秀三 海津ゆりえ編 世界思想社

 

 

 

 

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