つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

スペースは、無駄じゃない。

年末年始は移動で高速道路を利用しました。

 

 

お盆以来の利用だったのですが、アスファルトも見えており、快適に走行することができました。

 

行きは札幌市中心部から離れた場所への移動であったため路線もさほど混んでいなかったのですが、帰りに利用した際は利用する車の台数も多く、長い車列を作っている箇所もありました。

 

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 画像はイメージです

 

 

 

 

 

 

運転免許を取得するために通った自動車学校では、口が酸っぱくなるくらい「車間」を開けて走行しなさいと教えられた記憶があります。

 

一般道でも高速道路でも共通して言えることですが、車間が開いていれば不測の事態にも落ち着いて対応できるというのが言えます。加えて、年齢を重ねてしまうと状況を認知してから行動に移すまでのタイムラグが増えてしまうので、自分が事故を起こさないためにも必要なことだといえます。

 

 

 

行き帰りの高速道路での話になってしまうのですが、行きはスカスカ、帰りはちょっとした混雑と、180度違う展開を目の当たりにしたのですが、特に大きな渋滞等に遭遇することなく目的地に着くことができました。

 

これはもう癖なのか習性なのかはわかりませんが、高速道路で運転していると、車間が広い方が「安心」して走行できるな・・・と改めて気づきました。反対に路線に車が何台も連なっており、車間が狭くなると車線を移動して、車間が広いところまで一時的にスピードを上げて移動するということを何度か繰り返していました。

 

 

このような走行を何度かしていくうちに、ふと気がつきました。

 

 

何がというと

 

「車間」=「スペース」

 

だということ。

 

 

 

 

スペース・・・?

 

ああ、スペースか。空間か。

 

 

 

 

と思ったのです。

 

 

 

 

 

つまり、ガラクタ整理との共通点を、この車間から見出したということです。

 

 

 

これはぼく自身が「ガラクタ整理」を何度か繰り返し行ってきたことで得た実感から言えることなのですが、棚が本やCDでびっしりになっていたときと、隙間だったりスペースだったりというものが目立って多くなってきたときと比べると、明らかに後者のほうが「落ち着いて」いると感じています。

 

それは言い換えると「安心」と言ってもいいかもしれません。一時期本棚や壁面収納はこれでもかというくらいにモノがびっちりと入っており、それなりの充実感を感じていたのですが、いざモノを減らしてみると、充実感ではなく「安心」や「落ち着き」といった、フラットな状態になることが出来たように思います。

 

 

 

モノが多くなるのは仕方のないことなのですが、許容量というものがあります。

それは部屋にある収納スペースのことだと考えてしまいがちですが、大事なのは人間のほうにある「許容量」で、それを超えてしまうと感覚がマヒしてしまったりと、いろいろ滞ってしまいます。なのでモノを増やしてもいいのですが、管理できる範囲を把握しておくことが重要になります。把握するために重要なのが「スペース」だと考えていただくと、一目瞭然でわかると思います。普段使用していない棚にまでモノが溢れてきてしまったら、モノを減らさないといけないといった基準を設けるでもしないと、目の前にスペースがある限りは、エンドレスでモノは増え続けます。それがダメだとわかっていながらも、すぐには影響はないだという確証のない自信のもとに、ついつい棚上げしてしまうのです。

 

 

 

モノは、たくさんあったっていいけど、どこに何があるのかが分からなければ、そこにモノがある「意味」がない。

 

 

 

把握できる範囲内のスペースであれば安心ができ

把握できない範囲のスペースであれば不安になる

 

 

 

これは、走行時の車間にも言えることだな・・・・・と、ひとり考えていました。

車間が詰まっていてれば、たとえスピードは出ていなくてもあまり安心は出来ないものです(自分だけかもしれませんが)。

 

もちろん、車間なくたって大丈夫、という人もいると思います。それは把握が出来ているからということに尽きるのですが、それがイコール自分のモノの管理に直結するというわけではありません。残念ながら。

 

こういった不安や安心感を、他の何かに置き換えてしまうことでマヒさせてしまうことは、案外どこにでもあるものです。それによって、間違った常識というか、考えていた効果とは真逆のものだったということは、実はあったりすると思います。

 

じぶんが持つモノには適正量があり、それは少なすぎても、多すぎてもいけないということになります。それは最初から教えられて知り、そこを維持していくというよりも、何度かの失敗などを重ねたうえで見出していくのとは、大きな差が生じます。

 

 

 

昨今は最初からこの「もっとも適した」数値だったり範囲だったりを知ろうとする風潮が多いです。それは無駄な時間を省きたいという願いからのことなのだと思いますが、そこに無駄な時間があるのかというと、そうでもないと思います。結局そのような考えになってしまうことは「合理化」を推し進めていることにつながり、それは欧米化の流れにまんま乗っかっていることにつながります。そのあたりをしっかりと押さえたうえで、行動を展開していくことが必要だと感じました。

 

 

 

ガラクタ整理は、いまや雑誌の特集だったり、書籍だったりとあちこちでその内容を目にすることができるようになりましたが、それを行動に移したひとは意外に少ないのではないだろうかと思ってしまいます。それは何度も何度も同じような特集が組まれているし、ちょっと見渡せばそのような類の本を読んだという人をたくさん見かけるのですが、誰に対してしているのかがまったくわからない言い訳をしながらいっこうにモノの整理をしようとしない。それなのにまた特集が組まれている書籍等を購入する。

 

読むのはいいんですが、実行しない限りはなんの効果も発揮しません。

 

 

それが歯がゆいところでもあり、あくまでぼく個人の限界を感じるところです。

ガラクタ整理の新メニューも、延びに延びています。

決してこれが最強だ!というのもは出来上がらないかもしれないのですが、いまはまだこの想いをカタチにすることが出来ないでいる。そこにジレンマというか、未熟さを感じてしまいます。

 

 

 

いずれにしろ、まだまだ推敲が必要なようですが、高速道路での一件はよい気づきになったと感じました。

 

この世界の至る所に、ヒントや気づきの類は転がっていることを考えれば、そして本気で取り組んでいけば、想いをカタチに出来ることを感じた瞬間でもありました。