「吐き切っていない」
ここ数日の日記、そして読み終った本のことを考えていたら、そのようなことばが浮かんだ。
何を「吐き切って」いないのか?
それは無論、自分の持ち物であるが、それ以外にもあったのだということに気づかされた。
先日の記事で父のことを書いたとき、感情が昂ぶり大人気もなく泣いたことは書いた。
しばらくのあいだ、父のことでは泣くことはなかったので、この展開はほんとうに意外なことだと感じていた。
父の命日、そしてがらくた整理、呼吸に関する本、その他にもいろんなピースがひとつとなり、このようなことばを語りかけてきたのが、つい昨日のことだった。
それが
「吐き切りなさい」
「出し切りなさい」
だった。
呼吸の話しは前にも触れたが、実は吸うよりも吐くほうが大事だという見解には目から鱗が落ちるほどの驚きだった。息を吐ききらないと新しい酸素を吸入することはできず、からだの各機関も機能しないというのが理由だからだ。
想えば、呼吸には浅さ、そして深さがある。その用途も違うと感じている。
過去に呼吸のことを指摘されたとき、呼吸の感覚を長くしていこうとトレーニングを積んでいた。鼻から吸って口から吐くというものだが、それに連動するかのように本来のペースを取り戻していった。
昨年に「安定」を迎えた。がらくたを整理した先の、到達点だ。
それがゴールではないと気持ちを引き締めていたが、そこから更に高みに、そして深みに向かうための、「ベースキャンプ」に到達していたのだとわかった。
何となく、視点が自然と広範囲になった感覚を持った。
これからは、吐きだせるだけ吐き出していこう。
がらくたも、自分の気持ちも。
これまでは、両方とも「出そうとしなかった」。
ぐっと堪え、「出すことを諦めていた」。
その言動に対して周りがどのような反応をするかはわからないが、自分がやっていくことの本当の効果、そして恩恵と言うものを、実証していこう。
ガチガチの覚悟ではない。
軽やかな覚悟だ。
つくづく、自分自身が面倒臭い人間だと思う。
他人よりも、ひとつの出来事に対して必要以上のものを拾ってしまうようだ。
それをコントロールする、というのは表現としてそぐわないかもしれないが、入ってくるものに対するアクションをもっと変化させていくために、この方法をとっていく。
今年の目標は「吐き切る」。
それが、じぶんを変えるための、次の大いなる展開だと信じて。