つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

合理化が直感を鈍らせる。

 

じぶんのこどものころから比べると、現代はとても便利な世の中になりました。

 

 

携帯電話の登場。

パソコン、インターネットの普及。

自動車にはオートマ(AT)車がマニュアル(MT)車に変わってスタンダードとなる。

様々な分野において、技術が進歩しています。

 

何かが進歩していく反面、ある何かが衰退していきます。

それは何かを「得る」代償として、何かが「離れる」ということに似ている気がします。

 

 

 

時代が進むと、無駄を省くようになりました。

効率を上げ、生産性を上げ、利益を上昇させようという試みです。

当初の無駄は、インフラに充てられる費用などに目が向けられました。

その後、仕事で使用する品々などに焦点が当てられます。

そして、ひとの計画行動にロックをかけます。まるで式次第を求めるかのような、一切の無駄は認められない風潮になってきました。

 

逆に、合理化だけが利益をもたらすのではないという実証が出てきます。

それは昆虫などの生態系を例に挙げるとともに、人間の掲載活動においても、ある程度の無駄(非生産性活動)は、人間の活動においては意味があるものだと提唱しています。ただ

主たる企業は世界情勢が不安定なことから「いつ吹き飛ぶかわからない」という恐怖を抱えて仕事をするようになってしまったため、高度経済成長期とはまた違った意味での「身を粉にして働く」ことを推奨していくことになります。

 

 

 

 

 

これがもたらしたものは、「息が詰まる」職場環境の形成になってしまったのではないかと思っています。

 

合理化は、一部でありながらも「調整」という側面を持っています。

パフォーマンスを上げることは合理化に含まれていますが、その裏付けには根拠が今まで以上に必要となり、さながら論陣を張るかのような体制となってしまいます。細部にまで目を行き届かせ、そしてコントロールしようとする姿勢が見え隠れします。

 

 

ただ、考えて欲しいのです。

未だかつて、にんげんはなにかを完全に「コントロールできたことがあっただろうか、と。

 

 

これまで生み出してきたモノについては、次々と別の使われ方をされているケースが増えています。当初の目的とは別の使われ方ということになります。それがもとで大いなる悲劇や惨劇、そして争いを生んできていることは言うまでもありません。かといって、合理化が罪だといいたい訳ではありません。時代が進むにつれ、合理化はどうしても必要になってくるでしょう。自然環境や経済環境、人口等の変化についていかなくてはなりませんから、合理化というのはある種適切な対応だと思います。しかし注意してほしいと思うのは、ときに合理化は「直感」を鈍らせてしまう、ということです。

 

 

 

 

直感はそれこそ「ひらめき」とも言えますが、その土台としては「考え」が必要不可欠になってきます。土台が堅固であるからこそ、その上に出てきた「直感」は生きてくるでしょうし、活かされてくるのではないかと感じています。

 

仮にひらめいた!としても、それをどうしていけばいいのかがわからなければ、せっかくのひらめきも無駄になってしまいます。だからこそ、土壌としての「考える」ことは大事なのだと、ここでは伝えたいのです。

 

 

しかし、直感も合理化も、実際にはそのどちらも必要なものです。

大事なのは、やはりバランス。

中道(中庸)ということばが認知されつつありますが、どちらにも偏り過ぎないことが大事、ということに尽きます。

 

 

平たく言うと、合理化を進めるあまり考えることを優先(頭でっかちのような)してしまったり、直感といった感覚を優先するあまり、周りとの兼ね合いを一切考えない性質が出てきてしまったりなど、目に見える、見えないに関わらず、弊害が生まれます。

 

 

 

そういったことを薄々感じながらも、合理化のほうに引っ張られていくのは、それがもはや主流であり、スタンダードであることの証明になります。そのため、そのスタンダードから離れた活動等に関しては「異端」や「時代おくれ」等と評されるか、いきなり「人材がいない」などと誰に向かって言っているのかわからない小言を言い放たれたりしてしまいます。

 

 

合理化も、直感も、どちらも大事なのです。

ただ、どちらかに偏ってしまうと、もう片方のセンスは確実に鈍ります。

そのセンスが偏ったとき、自分がどのような状態であるのかを客観的に見たほうがいいでしょう(とはいっても、渦中にあったらまず見ることはしないと思いますが)。その原因を探ることこそが、実はよりよい成長や発展につながると信じてやみません。

 

 

 

何のために「合理化」があり、何のために「直感」があるのか。

世界に照らし、社会に照らし、そして自分自身に照らしてみてください。