つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

スピリチュアルが、邪魔になる。

 

スピリチュアルとはいったいなんなのか?

 

 

 

ときおり、疑問が浮かびます。

 

スピリチュアルと言うことばとともに、その世界が広まってからはそんなに時間は経過していないものの、神秘的な分野においてはスタンダードとなっています。

 

反面、それまでそういった分野を担ってきた宗教に関しては、疑いや飽きの目を向けられるようになり、衰退の道を進んでいます。

 

 

ひとによっては、宗教もスピリチュアルも同じと捉えることもありますし、まったく違う分野だと主張するひともいるかもしれません。

 

 

ではスピリチュアルとは何なのだろうか?

 

特定の宗教のようなものでしょうか?

それとも宗教というものに捉われない教えのようなものでしょうか?

ウィキペディアを参照してみましたが、かえってクエスチョンマークが増えます。

ただ、何となくですがここでは「性質」のような感じで捉えているようです。

 

 

 

 

所謂「スピリチュアリスト(本人は言っていませんが)」と呼ばれるかたがたに

 

「スピリチュアルとはなんですか?」

「スピリチュアルと宗教の違いは何ですか?」

 

と、尋ねたことがあります。

 

 

その回答は

「スピリチュアルはあくまで哲学のようなものであり、特定の教えではない」

「スピリチュアルと宗教はもともとひとつのものであり、時代の経過で分かれていった」

 

というものでした(要旨)。

 

 

 

 

その昔。

 

宗教がスピリチュアルの面を備え、その教義によってその部分が強化・補填されてきたような印象がありますが、時代が進むにつれ、宗教は「現代的」になり、何ら神秘的な要素を持たなくなってきた(もしくは衰退してきた)、という評価を多くのひとが持ち始めたのではないかと考えています。

 

その代わりにあらわれたのが「スピリチュアル」です。

しかし、そのスピリチュアルも、登場したての宗教のような扱いをされているのだろうな、というちょっと冷ややかな、客観的な目で見てしまいます。

 

スピリチュアルは、宗教とは違うのか?

 

 

 

違うとも言えますし、違わない、とも言えます。

何かしらのスピリチュアルを謳っているひとに関しては唯一無二のものだと仰るかもしれませんが、結局はスピリチュアルの定義などが曖昧で、もの珍しさや時代が後押しとなって、神秘性が支持されるだけのことで、本質は宗教と同じだと見ています。

 

 

その理由のひとつとして、「宗教」も「スピリチュアル」も、ときに邪魔をはたらくからです。

 

邪魔とはなんでしょうか?また、邪魔と言われて不快感を示すひともいるかもしれません。

 

 

 

ひとは何かしらの判断を下すとき、その下地にあるものは全幅の信頼を置いているものを据えます。そこに宗教またはスピリチュアルを置いた場合、それらの教義や特質した教えが「確固たる判断基準」または「障害」となり、個人が意識する判断とは異なる場合があります。しかしそのような場合においても、個人の判断ではなく、宗教やスピリチュアルの教えを「優先」して、決を下すケースがあります。ブームの流行り廃りはないですが、緩やかな上昇、そして下降を繰り返しているというのが、事実であると思います。

 

上記のような姿勢でものごとを考え進めていくのは何も悪いことではないのですが、こちらもやや偏り過ぎる傾向にあります。偏り過ぎていきますと、宗教やスピリチュアルの信条がいつしか「自分には幸せしかもたらすことはない」と、曲解するようになります。かんたんに言えば、自分が信じていることに間違いはないから、試練や不幸といった類のものは何ら訪れることはない、というものです。この価値観のもとに判断してしまうと、自分の正当性を主張、または護るために、かんたんに他者を見下す、または攻撃する(陰口をたたくなど)ようになります。それは宗教の場合で言えばお互いの教義をぶつけた論争のようなものとなり、スピリチュアルで言えば「充足度」の自慢バトルの様相を見せます。

 

そのような展開に持ってきてしまうと「宗教」や「スピリチュアル」が持っているであろう、万人に開かれた教えた信条とはかけ離れたものとして評価されてしまいます。結果、大小様々な争いを生むことになります。それは決して「他人」のせいではなく、「自分」のせいだとも知らずに過ごしてしまうケースが多いです。その結果、「そして誰もいなくなった」状態になることでしょう。

 

 

 

宗教でもスピリチュアルでも、時代に合わせてその存在意義は変容しています。

それがいつごろからか現世利益が固定化し、そして教科書に書いてあるようなことを単なる「さも前から知っていたこと」のように吹聴し、自分(だけ)が正しい道を進んでいるといった立場的な差別化を図るツールになりつつあります(いや、もうすでになっているかも)。

 

宗教やスピリチュアルから学ぶべきことは、ほんとうにたくさんあります。

そこに民族の生活性がありますし、道徳や倫理観もそこを土台にしてきた歴史があります。

しかし、宗教の教えと個人の感覚はまったくの別物。

個人の感覚を押しのけて(正しい・間違い関係なく)、宗教やスピリチュアルの精神を印籠のようにかざしていくことは、もはや自分の人生を進むことを邪魔しているに等しい行為だと思っています。

 

 

 

 

それらは「本質」でなく「エッセンス」だと考えたとき。

 

何かに属すること、教えに則ることが「正しい」という根拠は無くなります。

 

この世界、この時代に生きている以上、なにものにも依存することなく生き抜くこと。

そして考え、感じて、そこから得るものを判断していくこと。

それが、宗教やスピリチュアルに含まれる、本来の進むべきものだと思います。