つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ひとは「ことば」ではなく「ことばを発したひと」を見る

 

今ではあらゆるところに「名言」や「金言」といったものがかんたんに掲載され、また目を通すことができるようになりました。この背景としては「自己啓発」的な面が支持されているということもあると思います。ビジネス誌では自己啓発に近い特集が何度も組まれていますし、経営者が座右の銘にしていることばも、偉人の名言や金言になります。これまでたくさんのことばに触れてきたわけですが、その中には「誰が」発したことばなのか、実はわかっていないというものもあると思います。

 

 

 

そのことばが背中を押すこともあれば、押しつけがましいと反発されることもあります。

それは一体どうしてなのだろうと思ったことから、この文章を書き始めています。

そう思わせた出来事が、実際にあったからなのでした。

 

 

 

 

最初のほうに話を戻しますが、普段わたしたちは膨大な数の「ことば」を目にしていますし、耳にしています。そして、その対象が明確にわかっている場合と、そうでない場合とがあります。しかし、その対象が誰であれ、ことばの内容がその人に受け容れられるものであれば、歓迎されることは間違いないと思います。

 

それでしたら、その逆はどうなのか。受け容れられない場合はいずれにせよ、その内容がその人の信条と異なっていたり、または神経を逆撫でされるようなことを言われている可能性があります。これについても、上記と同様なことが言えると思います。

 

 

 

いっぽうで、ことばを発した内容ではなく、ことばを発した「ひと」を見て、判断をするケースがあります。

 

かんたんに言うと、「ありがとう」という同じことばをAさんとBさんがCさんに言ったとします。CさんはAさんに対しては「こちらこそ」という気持ちでそのことばを受け容れはしたものの、Bさんに対しては「お前が言うな」と、却って反感を買ってしまったというものです。

 

この差は何なのか?と、素朴に疑問を抱いてしまいました。

 

 

なんだ、そんなことかと仰るかたもいると思います。

 

でも、ことばは「同じ」なのに、人を見てそれをどうするかと「判断」しているさまを見ていると、それはいいようのない差別のような仕打ちを受けている感覚になります。要するに「人を見て」対応を分けているといった印象です。

 

 

確かに、BさんがCさんに対して普段から不快な思いをさせているひとであれば、このような展開になることは仕方のないことだと思います。しかし、そんなひとが発した「ありがとう」とは、いったいどういうことなのかをしっかりと咀嚼しないまま拒否反応を起こすのは、何だか勿体ない気がします。何故ならばそれで損することもあるだろうし、真実から目を背けるということにもつながると思います。これはイメージですが、ことばは不変のものであると思うのですが、結局ひとは肝心の「ことば」を見ずに、反応がしやすい「ひと」を見てしまうことが多いのではと感じました。

 

 

 

たとえ正しいことを言っていたとしても、「あなたの言うことは信じない」と言い返すパターンはあると思います。ちょっと高跳びしてしまいますが、それは結局「なぜ自分は生きていくのか」という部分を見ずに「とりあえずの生活」にばかり焦点を当ててしまっているかと思うこともできます。こじつけ論かもしれませんが、たとえ他人がどれだけ正しいことを言っていようが、間違っている(かもしれない)自分のことばを信じぬくといったケースもあります。それはことばではなく、結局はことばを発したひと「だけ」を見ているのだと思います。

 

 

 

単純に「ことば」だけを送るツールが確立して、何年が経過したでしょうか。

最初は物珍しい、カタカナで字数制限ありだったものが、今では長文を送ることも可能になりました。文字が機械的であることが心理的ダメージを増幅させるという懸念もありますが、間違いなく昔と比べると「ことば」はたくさん行き交うようになりました。

 

そこに「こころ」が込められているものと、込められていないものが混在しています。

いともかんたんにことばを作成でき、送ることができてしまうからこそ、おざなりになり、投げやりになり、押し付けたりするようになってしまったのかもしれません。先日とあるひとから「押しつけがましいメールをありがとうございました」と、なんとも皮肉がたくさん込められたメールが届きました。これには反省しきりでしたが、仮に同じ内容のものを違うひとが送ったとき、このひとはどんな反応をするのだろうと考えてしまいました。

それが決して間違いだ、というわけではありません。が、そのような選択は、結果として足元を奪われるだけだと、個人的には考えています。

 

 

 

ことばを活かすものとして、ひとの存在は大きいのだろうと思います。だからこそ、名言や金言は、多くのひとに届き、そして浸透するのだと思います。過去の偉人には様々なタイプのかたがいたと思いますが、そういった為人や背景を知り、いかにしてこのことばが生まれたのかを学ぶことも、今度必要になってくるかもしれません。ぼくのことばはちっぽけで無力で押しつけがましいものかもしれませんが、それがいつしか逆転していることを、いまは願うばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

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