こつこつと、変えていく。
わたしたちの多くは「一気に」変わることを望みます。
それと同じくらい、もしくはそれより多く、「自分ではない誰か、または何か」が、変えることを行ってほしいと願っています。
その背景としては、何も変わらないと感じてしまう日常があるからにほかなりません。
それに拍車をかけてしまうのが、劇的に状況が変わることを展開として含めた様々な媒体です。
ドラマ、映画、ラジオ、書籍、そして誰かから聞いた話。
それが確かかどうかもわからず、羨望し、自分の元にも訪れて欲しいと願うようになります。
状況が変わることを望む。
それは何も、今に始まったことではないでしょう。
古来より、いや、わたしたちという存在が顕われたときには既に、そのような思考や感情を抱いていたのかもしれません。
そして、よく描かれる状況下としては
・宗教的なもの
・恋愛的なもの
・人生的なもの
が挙げられます。
そのシーンは、感情を駆り立てることでしょう。
しかし。
わたしたちは知っているはずです。
状況は、一気には変わらない。
100%ではありませんが、滅多に変わることはありません。
ましてや、
自分が何もしないにも関わらず、他力本願で変えて欲しいと願うひとが圧倒的に多くなりました。
それが悪いとは、言えません。
ただ、哀しい、と言えばいいでしょうか。
自分では変わらない、変えられないという経験をしてきたからこその行動だとは思います。
ですが、自分が行動を起こすことを「放棄」してしまうと、願いを実現するための行動哲学は大きく変わってしまいます。
「スピリチュアル」も、その中のひとつに含まれています。
個人個人における「スピリチュアル」の意義というか、「色」は異なっています。
それは、定義として「スピリチュアルの色はこの色」と仮定したとしても、ひとによってその見え方、色の判別は変わってしまうということ。
それが、わたしたち人間の能力の深さであり、能力がもたらす落とし穴でもあります。
そのため、「過信」や「自意識過剰」に注意したいのです。
変な言い方ではありますが、
わたしたちは「特別」であり、また「特別ではない」存在です。
言い換えると、わたしたちは常に「平等」であり、また「不平等」でもあります。
おそらく、その本質というか、表面だけではない、その深部を見ていかないとなりません。
そうしなければ、ずっと罠にかかったままです。
その罠は、自分が想像もしていなかった環境が、実はそうだったと思わせるものとなっているでしょう。
その現実を突き付けられたとき、にわかに信じることは出来ないと思います。
そして、その事実を否定するでしょう。嘘だと。それこそ罠だと。
これは素朴な疑問ですが、
罠の中身が「苦しみ」だけとは限らないのではないか。
それを知っているのといないのとでは、大きく違うのではないかと感じます。
この数年、いろんな苦しみを味わってきています。
ここまでくると、オンパレードです。笑。
その苦しみはまだまだ続いていますが、苦しんでいるからこそ、見えてきたものがありました。
だからきょうも、ぼくはがらくた整理をしています。
小さなものではありますが、名刺の整理を仕事の合間に行いました。
名刺ホルダーに入っていた中で、全部で15枚の名刺を処分。
なぜ、がらくた整理をするのか?と聞かれます。
端的に言うと、「これまでモノで溢れていた場所をすっきりさせ、スペースをつくることで、新しいモノが入りやすくなる」。
という説明になります。
ですが、がらくた整理にはもうひとつの理由が存在します。
それは「マインド(心)」のがらくた整理。
つまりは「モノ=マインド」なのです。
よって、モノだけを減らせばいいという考えは残念ながら100点満点中50点でしかありません。
断捨離の本でも、実はよく読んでみますと、モノを片づけるという話だけではないことがわかります。断捨離や整理整頓を実践している人は、モノの整理を心の整理を同時進行で行っているのです。
だから、こればかりは「一気に」片付きません。
おそらく、一気になってしまうと、卒倒どころではないと思います。
整理する際、自分がちゃんと手に取って、必要か不要か判断することも重要です。
仕方ない局面もありますが、業者さんに任せるのは、あまり賛成できないのはそのためです。
色々考えますと、奥が深いことがよくわかります。
やることはシンプルですが、その影響はそう単純ではありません。
昨年はガラクタ整理師の下でガラクタ整理を学び、自分のモノとマインドを徹底的に整理しました。
講座終了後は師の指摘にかなり落ち込み、そこから先の講座の受講は白紙になりました。
そのため、徹底的に考えました。
そして、自ら歩くことを、決めました。
師からすべてを学んだわけではありませんが、独立することを決めました。
師には報告しましたが、返信はありませんでした。
ひとに教える立場になりましたが、立ち位置が変わっても日々学ぶことを続けています。
師から教わったほうが早いのかもしれませんが、自分で気づき、学ぶことの大きさを味わいながら、日々を生きています。
最早断捨離や片づけはポピュラーなものとなり、何ら珍しいものではなくなってしまいましたが、ポピュラーなものであるからこそ、手を中々つけないという流れも出来ているようです。人にとっては、片づけすら、面倒なもののようです。
世界はいま、願う、祈るという行動でじぶんの周りの環境を変えたい、または変えようとしているひとたちが増えてきました。その背景としては、自分の行動では変わらないからと感じていることが大きいからなのだと思います。
ただ、この世界は、自分が動くことが大前提になっています。
残念ながら、願う、祈る「だけ」では、半分にしか過ぎないのです。
そして、そこにはバランスも伴ってきます。「罠」も潜んでいます。
それをどう俯瞰していくかが大事です。
ここまで歩んできた自分が自信を持って言えることです。
もちろん、これからの経験次第では、この表現は変わります。
間違っていたと認め、訂正することもあるでしょう。
間違いは、誰にでもあります。
だからこそ、間違うのを怖れはしません。
間違いがあることを知らなければ、何が正しいのかもわからないから。
かといって、率先して間違います!という訳ではありません。笑。
現実的な行動は、不思議と非現実的なものごとにリンクしています。
スピリチュアルも、そのひとつと考えてよいです。
その関連性を意識していくことの大切さに、どうか気づいていただきたいです。
ぼくの仕事場(自宅ですが)、デスクの周りにはまだまだ「やること」が残っています。
昨年いちど感じた「安定」。これも既に「過去」のものとなっています。今年はどんなタイミングで、何の整理をしたあとで「安定」を実感できるかが、楽しみでなりません。
その「安定」を目指すのが目的ではありませんが、がらくた整理を通して感じたことなどを生活に反映させていく。いまはそれが、良い選択になると信じています。