とみーのグラウンディング日記

北海道・札幌市在住。伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「減らす」ことの本質から目を背けないで。

昨日の日記で、「増やす」ことについて少し思うところを書いてみました。

 

 

 

ぼくは、「がらくた整理」をコーチングすることを仕事としています。

がらくた整理はいわば「断捨離」のことになりますが、これは仕事としているだけではなく、ライフワークとして日常に取り入れています。

 

きっかけは休職中に出逢った本でしたが、その後講座を受けて基本を学び、その後はひとりで実践し、学びや考えることを都度するようにしています。

 

 

 

そうなってしまうとどうしても「頭」だけのイメージが先行しがちで、実際の感触との差が出てしまいます。その差をなるべくゼロにし、言っていることとやっていることが違うことのないように意識しています。

 

 

 

 

 

 

「増やす」ことについての考えは昨日の日記で少し書きました。その対象としての「減らす」ことも書いています。

 

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

 

 

ここ数日、「減らす」ことについてのイメージを深く掘り下げています。どのようなイメージを持ちがちなのか。どのような常識を持っているのか。

 

 

 

改めて「減らす」ことで連想してみると

 

 

 

体重(または体脂肪、サイズなど)を減らす

経費を減らす(節制とは少し異なる)

資料や書類などを減らす(整理整頓と同義)

荷物を減らす

時間を減らす

 

 

 

など、いろいろ出てきます。

 

 

 

これは意図的にではないのですが、書き出してみたところ、そのすべてがあまり「楽しそうに見えない」と思うことがわかりました。つまり、ポジティブに捉えることが難しいということです。

 

 

 

これは「増やす」という行為が「いともかんたんに」できるということを踏まえての考えになってしまうのですが、「減らす」という行為は、「増やす」という行為と比べると格段にその労力を使います。加えて、時間も伴います。増やすほうは一気にその変化を見てとることができるのに対し、減らすほうは短時間での変化を確認しにくいことが特徴です。

 

わたしたちはどうしても、短時間での成果を求めたがる性質を持っています。仕事がその顕著な例であり、日常生活でもまた、新鮮な刺激として求めてしまうことはままあります。その背景としてはコストの問題があるでしょう。そこは仕方のない面がありますが、もうひとつの背景としては、「苦しみたくない」という切実な思いが込められているのではと感じます。

 

 

 

苦しみ。その中身は純粋な苦しみのほか、最初は苦しみという感覚がなかったとしても、気が乗らない行為を続けることによって生み出される拒否反応も挙げられます。そこにはいろんなネガティブなことが内在します。それらが雪だるま式に増えていった結果が、表に出て感じてしまう苦しみになるのだと思います。

 

苦しみは、やはり苦しいです。それを好んで感じ続けるひとはそういません。

そのため、その苦しみから早く抜け出したいと、ひとは強く願います。また、苦しみから抜け出るために、さまざまなことに手を出します(または始める)。

 

 

 

苦しみから解放されたい。誰もが思うことです。

ただどうしてもそこに「一刻も早く」という強さが加わります。

そうすると、脱け出るための方策の効果を「一気に」期待してしまいます。

それが目標に達しなくても、短期間で納得のいく効果が見られなければ、意味がないと言って他の方法に切り替えます。そして、それを繰り返します。

 

 

 

いまでは魔法のように、短期間で効果が出るといった商品やメソッドを数多く見かけるようになりました。それが本当の話しでもありますし、少し(あるいは誇大に)脚色しているものでもあります。そういった話を耳にして、如何に楽をして結果を出すかといった競争が生まれるようになりました。プロセスを重視せず、結果だけを取り上げるかのような風潮です。それは人間としての大事なものを否定することにもつながりかねません。

 

 

 

そんなに短時間で「結果」が出ることが重要なのだろうか?

その背景として、「時間」が貴重なものだからという見方があるのだと思います。

わたしたちはどうしても、地味なことに時間を割くことは極力少なくし、華やかな、楽しいことに大幅な時間を割きたいと考えてしまいます。

 

 

 

ですが、時間をかけた地味な行動、努力といったものが後々どのように反映されていくか。

わたしたちは都度、その重要性を知る機会を持っているはずです。

だから自戒を込めて言えば、土台もなしに短時間でものごとの結果が出るというのは「幻想」に過ぎないのです。これは昨今のスピリチュアルと呼ばれるものにも、じゅうぶん当てはまります。

 

 

 

人生、すべてが都合よく進むわけではありません。どこかで必ず「地道な努力」を求められる時間帯がやってきます。それは「祈る」「願う」というものではなく、汗水を流したり、成功や失敗など、数多くの経験を積むことです。それがなければ、望んで訪れた境遇に関しても、いずれ感覚がマヒしてくるでしょう。

 

 

 

「減らす」または「捨てる」行為は、自分で自分を癒す(または治す)、シンプルな行為なのだと思います。それを知らないから、それが苦しいから、他のことに頼ってしまう。そうやって敬遠されてきたように感じます。

 

「減らす」「捨てる」行為は、無意味なものではありません。

現代にとってこの行為は「行」であります。「瞑想」とも言えます。

ここに真実はありませんが、この行為を通して、今まで気づかなかったことを知る機会につながるとは思います。

 

 

 

そこに恐怖を抱くか、それとも覚悟を決めるか。

はっきり言って、半端な気持ちではかえって痛い目を見てしまう。

 

 

 

 

 

 

だから嫌なのだ、ではなく。

 

 

 

 

増やすことも大事だけれど、増やすことにも、そして減らすことにも勇気を。

そして、そのどちらにも自分の生活が大きく関わってくることを。

ものごとは都合の良い考えで動くのではなく、原因と結果で動いていることを、少しずつでも知っていくことが大事だと思いました。