つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「道具」にするか、「凶器」にするかは。

先日の活動で感じたことがあり、きょうはそのことについて少し書いていきます。

 

 

 

ひょっとしたらまとまりがないかもしれませんが、考えるための課題のようなものだと思っていただければ幸いです。

 

 

 

 

先日のボランティア活動で、火おこしをする際に必要な枯れ木などを集めてきて、適当な大きさ(燃えやすい大きさ)にカットするため、3種類の刃物を用意しました。

 

3種類の刃物とは、おの、なた、のこぎりで、それぞれの使い方と注意点を、デモンストレーションを交えて行いました。しかしこの日はとても暑く、子どもたちの理解する力を阻んだようで、どうにもうまく扱えない、要するに危なっかしいシーンが幾つも出てきました。

 

 

 

その他、電動ドリル(インパクト)を使用して穴をあける作業と言うのも別枠であったのですが、本来の使い方とは違う使い方をされていましたので、内心「きょうはいったいどうなってんだ!?」と思ったほどです。少なくとも、刃物を扱う時間はとても長く感じ、けが人がいつ出てもおかしくない、ぎりぎりのラインだと感じて真剣に接しました。しかし、どうにも前に進まないのと、他の子の順番がある関係で、前段階をこちらで施し、最後の一撃みたいな部分を任せることに。危険度はだいぶ下がりましたが、それでも気が抜けない、とても長い時間でした。

 

 

 

 

モノを扱う際、その結果としてそのモノが「道具」になるか、または「凶器」になるか。

その境目を握っているのは、扱うひとにかかっています。

 

無責任な話かもしれないのですが、どんなに説明があってもなくっても、そのモノを使って顕われた結果は、やはりその人の責任になるのではなかろうか、と考えてしまっています。

 

 

 

今回述べている活動の場合、刃物を使う目的を「木材を伐る」こととしています。

そのための説明も、入念に行いました。

しかし待っていた展開は、少々あぶなっかしいものでした。

単純に前述した内容を当てはめるわけにはいかないのですが、モノをどのように扱うかは、そのひとの「理解力」または「集中力」、そして「意志」がおおきく関わっていると感じます。

ただこれには、理解や集中に足るタイミングかどうかというのが、管理する側の責任になってきます。説明もざっくりで、見守りもしているようでしていない中で起きてしまったけがなどについては、その責任は当人のみとはいかなくなります。

 

 

 

子どもという存在に対しては、ある程度のガイド、ナビゲート、インタープリテーションを行わなければなりません。そのうちのひとつでいいような気もしますが、子どもに限らず、ひとがどのような手段で理解し、発想につなげるかについては、固定された方法がありません。すべてを尽くす。出来得る限りの方法で、頑張って伝える。精一杯届ける。それで相手が分かってくれれば「御の字」です。むしろその逆の展開が多い。それを反省し、次はどのようにしていくかを悩みながら考えていくことこそが、ひとつのおおきな架け橋になります。子どもの側に多くを求めてはいけませんが、要所を押さえることは必要。自分自身を、そして周りのひとをけがさせてはいけません。そうしないためにも、どうでもいいとか、気分でそのモノを扱うような事態だけは、避けたいと思いました。

 

 

 

近年、モノは本来の目的とは違った使われ方をされており、痛ましい、哀しい出来事につながったりもしています。発明的に違う使い方をして、新しい使用方法(あくまで発展的)が生み出されるきっかけになれば、もちろん言うことはありません。しかし残念なことに、かなりネガティブな、ひとことで言えば「闇」の側に寄った使われ方をすることが目立ち始めています。それは子どもが結果としてそのようにしてしまったのとは大きく違います。そこは大いに気をつけるべきですし、責任を意識するのは必須になります。

 

 

 

わたしたちは、便利なモノに囲まれて生活をしています。

いっぽうで、わたしたちはその便利なモノを使用して、ときに何かを傷つけてしまいます。

 

その行動を、考えて行う場合もありますし、感情だけで行う場合もあります。ちょっと斜めから見てしまうと、「ほかの何かに責任を押し付けて」やってしまうこともあります。決めたのは自分じゃない。自分は指示に従っただけだ、と。

 

モノを扱う際の「気持ち」、本来はどんなものだったのだろうと、考えてしまいます。

そして、現代はそれが何故か複雑になってしまったような気がします。

 

 

 

風潮として、自分だけのメリットを求めている傾向が強くなってきました。その背景には、自分ばかりが損をして・・・という環境がとても多くなったからだと感じます。先日ニュースで流れていましたが、スーパーと取引をしている企業の担当者が、無償でそのスーパー内で働かされているという内容を見ました。それに屈しなければならない図式が、普段利用している場所の裏側にはあるということです。過去、家電量販店で同じような行為が行われていたことが発覚して、行政の指導が入りました。その様子を知らないわけではないのに、それでもやってしまうということは、「自分たちは大丈夫だ」という根拠のない自信や確信があるからにほかなりません。

 

 

 

 

わたしたちは感情で動くいきものであり、直感でうごく動物であり、考えて動く存在です。

その価値を上げるのも下げるのも、実は自分自身だということを、肝に銘じていかなくてはならないのだと感じた、とある真夏の夜の考え事でした。