久々に、レターセットを取り出してきました。
この時点ではまだ一文字も書いていませんでしたが、先ほど無事に手紙をしたためました。
手紙の相手は、ぼくの母です。
母宛に手紙を書いたこと。
一体何回あるでしょうか?
小さい頃の思い出は残っていません。憶えているだけでも、片手で足りる程です。
そのためか、書き出しはとても緊張しました(汗)
読者のみなさんも、手紙を書かれたことはあると思います。
ともだち宛
恋人や好きな人宛
親族宛
目上の人宛
に、メモ程度のものもあれば便せんにしっかりと書き連ねたものまで、手紙は多岐に渡ります。
現在、昔ほど手紙は手段として用いられなくなったような気がしています。それよりももっと便利なメールやSNSのメッセージなどが普及しましたから。それはそれでいいことなのですが、同時に少し悲しいと感じています。
手紙で伝えたいことって、ちょっと特別な感じがしています。
もちろん、話しことばで伝えることも特別ではあるのですが、日常的に使う会話とは違い、手紙は「紙に字を書く」というひとてまかかります。そして、ことばを考え、選んで書いています。その至高な労力と時間があるからこそ、手紙は素敵な存在だと感じています。
以前の日記にも触れたと思うのですが、ぼくは手紙を書くのが「好き」な部類のにんげんです。
そもそものきっかけは
ラブレター
ではなく(笑)
大学時代、友人への励ましを込めて手紙を書いたのがきっかけでした。
その後、もちろんラブレターも書きます(笑)そして、見事玉砕でした(笑)
大学時代、通信教育という通学課程とは異なる環境で勉強していたため、周りの人間との結束感が強くなっていました。その中で色んな話をぼくに話してくれるようになったのです。で、その相手には手紙を書くよ、とは伝えず、ほぼサプライズで手紙を書いていました。その数はかなり多かったと思います。その後何年間かは文通のように続いていたこともありましたし、手紙を書くのがライフワークのようにもなっていましたので、一時期は凄い量のレターセットを所有していたこともありました。そのため、多少のブランクがあったとしても、手紙を書くことが出来る体質になっています。
ただ、今回母に宛てた手紙は、母の体調を気遣うもの。
今年の初めに難聴のような症状が出て耳鼻科へ入院。
そのご入退院を繰り返すなど、中々落ち着かない状況が続いています。
その後症状に合わせた治療法を探し、現在試してもらっていますが、定期的に実家へ電話しても、気弱な声が返ってくるばかり。そんな中、頼まれものを送る必要がありましたので、その中に手紙を同封すべく書いていました。
決して気持ちのいい手紙じゃあありません。
理由はわからないけど、泣きたくなって(汗)
母の体調を気にする手紙を書いていることが、何だか信じたくないんだと思います。
電子機器が普及した今日、手紙ではなくメールやメッセージなどでかんたんに要件を伝えることができるようになりました。また、携帯電話にも留守番電話機能が付属してきたことや、時間を気にせずコンタクトをとれることもあり、以前よりはるかに気楽に伝えることが容易になってきました。
反面
メールでもいい
電話でもいい
と、相手の気持ちを考えず、自分が伝えたいこと「だけ」を伝え、それではいおしまいとしてしまうケースも増えてきています。それぞれの伝達方法は、それぞれによいところがあります。しかし、それをひとりよがりな立場で使用してしまいますと、いかなる方法でも結果として「相手を深く傷つける」ことにつながってしまいます。実は伝えた側は、伝わった側のその後など「気にしない」ことが多いと思います。そのため、自分のひとことで相手がどう変わっていったかなど、考えたことはないと思っています。そこに内在している「思いやり」や「ていねいさ」などを、もう一度見つめ直す必要があると感じているのですが、いかがでしょうか。
明日、この手紙を含めた荷物を発送しますので、そのまた翌日に到着する予定です。
母がどんな気持ちでこの手紙を読むのだろう。
そんなことを考えながら、一文字ずつ丁寧に書いたつもりです。
つたわり、とどけ。
シンプルなことばですが、ぼくにとってはとても大切なことばです。
母に対しても、他の方に対しても、欲張りではありますが、ぼくのことばや気持ちがつたわり、とどくことを日々願っているのです。
きょうまでに読んだ本
僕らが毎日やっている最強の読み方 池上彰 佐藤優 東洋経済新報社 (253)
ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践 地橋秀雄 春秋社 (254)
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