つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

雇われる側の責任と、雇う側の責任。

2か月という短い間ではありましたが、ひとまず会社勤めを果たしてきました。

 

ASV(アシスタント・スーパーバイザー)という役割を与えてもらいながらの仕事となりましたが、自身の経験はもちろんのこと、いまの世間の何たるかというのも実感することが出来ました。今回は世間の何たるかという部分にスポットライトを当てたいと思います。

 

 

 

 

 

唐突な話ですが、ぼくが居た部署といいますか、チームに在籍した人数は60人程度の人員がいました。

しかし当初はそれよりも10人以上多い人員がいたのですが、研修時とOJT、そして実務本番と段階にわかれて「辞めていく」人が出てきていました。

 

この「辞めていく」詳細をぼくは知らないのですが、担当の社員さんの横にぼくの席があったため、時折対象の人の話が耳に入ってくることがありました。その内容は、非常識なもので、死語ではありますがまさしく「KY」そのものでした。

 

 

何が非常識でKYであるかと言いますと、

 

・契約を無視して辞めるの一点張り

・出社拒否

・無断欠勤ののち退社

・一方的に社員証(IDカードのようなもの)を送付し退社

 

というパターン。

 

しかも、辞める一方的なのに、自身の要求だけはしっかりと突きつけてくるという豹変ぶり(笑)これは当人にとっては当然の権利だと考えてのことだと思うのですが、完全に履き違えていますよね。まずは社会人としての務めを果たしてからの話しだと思います。担当の社員さんもチクリ(この社員さんははっきりと言うタイプ)とそのことは言っていましたが、相手はそんなこと気にしないでしょう。ぼくよりも年齢が上の人でさえ、権利だの自由だのと主張して正当な訴えをしていると「思い込んで」いるのです。

 

これ、はっきり言ってかっこ悪いです。

 

加えて言いますと、これ、次の場所でも引き摺ると思います。

完全に、自業自得の因果になります。

 

 

 

こういう顛末を見て(聴いて)、世も末だよなぁと考えながら仕事をしていました。

責任を一層自覚しなければならない世代のひとたちが、責任を放棄する「権利」や「自由」を主張するのですから。なんだか使い方、間違ってません?と言いたいですけど。

 

 

 

 

 

いっぽう、社員さんの側にも、多少ながらの問題と言いますか、逃げのようなものがありまして。

 

 

 

それは以前にも触れた「振る舞い」なのです。

 

担当の社員さんは以前「わたしは恐怖政治でいっている」という主旨の発言をされていました。本人はそれでいいのかもしれませんが、一般のオペレーターさんはたまったものではありません。質問やそれ以外のことすらも、話しかけることが出来ない状況が出来ていました。本来ならば、気兼ねなく(時と場合によりますが)声をかけることのできる存在でいなければならないはずなのですか、それすらも躊躇させるものが出来上がってしまっていました。これでは息苦しさばかりが目立ち、日々の業務も辛さばかりが目立ってしまいます。

 

今思うと、この環境が勤怠の乱れやリタイアした人員を呼び出したのではないかと思っているのです。

 

 

 

仕事に就く際には予め業務内容などの情報を確認しますが、実際に勤めた際に重要になってきますのが、働く場所の環境です。

その環境は設備的なものを指しますし、同時にそこで働く人たちをも指します。

 

 

 

電話対応にも消極的であったという話を後々聴きましたが、実際に残って頑張り、めきめきと力をつけていることを見ていけば、電話対応の得手不得手はあるものの、とどめの要素のひとつには、働く場所の環境が大きく影響していたと言えるのではないかと考えていました。

 

ただ、雇う側としての主張は「契約した以上は期間内の業務は全うしてもらいたい」というものです。しかし雇われる側(働く側)には、この重み、いわゆる「責任」は、残念ながらありませんでした。そのため、10名を越す脱落者を出してしまいました。

これはもう、お互いの立場の考えの疎通が出来なかったというしかありません。

また、主張・考えが頑なです。そのため、息が詰まる空気を生んでしまったのです。

 

職場には適度な緊張感が必要です。それは業務であるからです。

しかしそれも「度」を越してしまいますと、まったく異なったものになってしまいます。

それは働く側も、雇う側両方に言えることだと思います。

 

 

 

年末年始の業務はまだ続いていますが、その期間が終わって、結果を見たときに、社員さんたちはどのように今回の展開を振り返るのでしょうか。この責任の所在や今後の展開並びに「私たちはどうすべきだったか」を確認しない限り、次の年もまた次の年も、同じようなことで頭を悩ませることになるでしょう。同じことを繰り返していますと、予想できる結果としては人員が必要な時期にも関わらず人が集まらないという危機的状況を生みます。それは景気云々ではなく、大きな要因として「積み重ねてきたもの」の結果のひとつであるということを嫌でも知ることになります。

 

 

 

わたしたちは日々の生活で、いろんな感情を抱いて過ごしています。

おおきな特徴として、ネガティブな感情はどんどん大きくなり、「逃げ」ることをまるで推奨するかのように無責任な行動を後押しします。そして、その行動が正しいことだと自分に言い聞かせます。それはどのような立場のひとにでも起こることだと思います。

 

そのような行動は、出来るだけ少ない方がいいです。

やってしまったときは、必ず反省して、次はやらないようにしようと意識していかなくてはなりません。

こういったマイナスのことは、癖として残ってしまいがちになります。

その対策を何もしないと、次の職場、また次の職場にも「持ち越して」しまいます。

 

 

 

わたしたちは多かれ少なかれ、悪いことをしてきました。

それゆえ、反省もしてきているはずです。

肝心なのは、反省して終わりにしないこと。

どのように「次につなげていくか」を設定し、展開を起こしていくかが重要ではないでしょうか。

「○○だからしょうがない」というのは、単純に自分「だけ」が納得したい、または納得させたい常套句です。そのような気持ちでは一切解決しないでしょう。

生きている以上は、生きていく以上は、責任を持たなくてはダメなのです。

あらゆる責任を他人に押し付けてはダメだと知るべきだと考えます。

 

 

 

11月はぼく自身も欠勤や遅刻をしてしまい、現場には迷惑をかけてしまいました。

それでも、最後まで勤めさせていただきました。

かっこ悪い姿を見せてもいい。そんなのは関係ない。

やるべきことをやろうという気持ちだけで、前に進みました。

 

これらの経験は、ひとりで仕事をしていたらひょっとしたら気がつかなかったことかもしれません。そのため今回はとてもいい経験でしたし、勉強になりました。

 

この場所で過ごした時間は、必ず活きてくると信じていますし、活かしていかなくてはならないと感じています。それこそが、まさしく責任を果たすということのひとつの解釈になると信じています。