つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

がらくた整理は、決してラクじゃない。 ~がらくた整理 ケーススタディ⑦~

きょうは所用のため北海道神宮周辺へ。

 

 

 

気温も昨日同様、しばれる1日となりました。

 

札幌の積雪はさほど多くはなかったものの、他の地域では強風や雪などによる被害が出たようです。少しでも早い回復を願います。

 

 

 

北海道神宮の敷地内に飲食店がありまして、そこでは中華そばやお粥などをいただくことができます。またその系列のお店として海鮮中華のお店があり、そこで何度か食事をさせていただきました。

 

昨年の11月ですが、自分が幹事となりお世話になっているかたの慰労会を神宮の敷地内にあるお店で行わせていただきました。その際にここの店主ともお知り合いになり、以後お世話になっています。きょうは年末用に冷凍総菜のセットを買い求めるため、参拝と併せて訪れました。

 

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 購入した際に店主からいただきました「軟白ねぎ(青いところ)」。

 

 

その道すがら、閉店したお店が入っているビルをちらりと見てみますと、未だ次のテナントは決まっていないようです。

 

このテナントの近くには郵便局もあるため、荷物の発送作業のときにはよくここを通ります。道を挟んだ向かい側には円山公園が見えますので、眺めがとても良いです。

 

テナントはビルの3階にあり、このあたりの飲食店としては珍しい位置にありました。

高さのあるところから公園を眺めることが出来るのは、大きな強みだったのではと思っています。しかし、そういった強みも活かされることなく、努力の甲斐もむなしく、お店は閉店となってしまいました。

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現在もテナントは入っていないようです。

 

 

 

 

閉店の理由はわかりません。ひょっとすると、止むに止まれぬ事情であったかもしれません。

ただ、その可能性を考慮できないほどの「急変」を感じていましたので、それを排除することにしたのです。

 

 

 

最後のほうは、「どうしてこうなってしまうんだろう」という思いでした。

 

自分で努力することは極力せず、新しいスピリチュアルグッズを購入しては、それをお店の中に配置し、その場のエネルギーを高めることに心を奪われていました。

 

ほんとうならばお客さんが来ることは歓迎すべきことであるはずなのに、注文内容についてあれこれと文句を言うようになってしまいました。

 

そのお店に通うお客さんのなかで、お菓子を作るかたがいらっしゃいました。それも普通のお菓子ではなく、アレルギーなどを考慮したお菓子になっているため、普段のお菓子作りに必要な材料を用いることが出来ず、結構大変なようです。そのお菓子を試作品から通常納品に至るまでそのお店に収めていたのですが、お客さんがこなかったこともあったためか、その扱いもぞんざいになってしまっていました。

 

 

 

批判はエネルギーを下げる、なんてことをどこからか耳にしますが、批判をしなければだめなときもあります。日常では批判はしなくても、政治に話が移ると批判続出なんてこともあるようです。批判はすべきではないことなのかもしれませんが、それは「何も考えずに」する批判だけに思います。しっかりと考えておこなう批判は、別に思います。

 

また、批判をするかといって、自分に落ち度はないとは思っていません。PDCAにおける「C=チェック」は、このお店のがらくた整理に携わった誰よりも行っていると自負します。何が良くて、何がいけなかったのか。検証する前にお店が閉店してしまったので、考えは尽きません。

 

このようにお世話になった場所や人を批判することに対して嫌悪感を抱く人もいると思います。要するに「感謝も出来ないのか」ということです。もちろん、感謝はしています。感謝がるからこそ、うやむやにはしたくないのです。それがM’sクリアラーとして携わった、自分の責任だと考えています。

 

 

 

ががらくた整理は、単なる整理整頓ではない。その人の心をもクリアにするための、憑きもの落としのようなものなのかもしれない。

 

だから、モノは減っても、心(マインド)はクリアにならないケースが出てくる。

そのため、空いたスペースに違うモノを持ってきて埋めようとしてしまう。

 

そのような仮説といいますか、結論に至りました。

 

 

 

がらくた整理(断捨離)は、かんたんなことのように雑誌やテレビなどで特集されているけれど、実はそんなに簡単で楽なものじゃない。甘く見ていると、リバウンドどころの騒ぎではなくなる。がらくた整理はシンプルだけど、とても奥が深い。だからこそ、表面の事象のみに捉われてはいけない。いわば、紙一重の世界だと言える。

 

このような連想をしていて、少し震えを感じました。

 

 

 

 

このように堅苦しく考えてしまうのは、ぼくの悪い癖。

だからこそ、哲学的に、スピリチュアリズムに則って考えてみることが出来る。

日常の中にこそスピリチュアルは存在する。特別な儀式や能力、場所に行く必要はまったくない。己の行動にこそ、あらゆるものが内在する。

 

がらくた整理に限らず、あらゆる日常的行動の中に、スピリチュアルを謳う人がいうところの「真理」が内在している。そのように考える方が、ごくごく自然です。

 

現代ではとかく閉鎖的な宗教は毛嫌いされる傾向にあります。反面、自分にとってプラスとなる宗教的・スピリチュアル的なものに関しては無抵抗に受け容れる傾向にもあります。そこには関係する人や場所が大きく影響しますが、選り好みをしているように思えてなりません。自分に都合のいいものしか信じない・受け容れないというだけの話です。

 

今回のがらくた整理も、そのような面が強く出てしまいました。

 

がらくた整理をしたから、良いエネルギーが必ず入ってくる。

 

不要なモノを減らしたから、パワーのあるアイテムを新たに取り入れて、この場所のエネルギーを向上させよう。そして、わたしも新たなステージに行こう。

 

こんなふうに考えているうちは、まったくもってダメだということが今回痛感しました。

 

がらくた整理はいわば「自力本願」。決して「他力本願」ではないのだと。

 

 

 

モノを増やすも減らすも、自分次第。

そこには小さくも大きくも「責任」が介在しています。

その責任から「逃げて」はダメだということ。

責任と向き合うことから、がらくた整理は始まります。

 

世の中は一層、自分の責任は棚上げにしておいて、他人の責任を追及する光景が増えてきました。そんなことをしているうちは万事つつがなく進むことはないでしょう。そのようになってしまった背景も近代化の特徴にあるとは思いますが、いまいちどあらゆることを学び直す必要を感じています。

 

がらくた整理自体は特に新しいことをするというのはありませんが、その考え方については少しずつ新たな発見(または哲学的な考え)が浮かんできます。既に自身でも何度か行っており、経験をしてきていますが、それでも新たな発見がその時々で現れます。そのたびに不思議に思い、純粋に驚きます。思えば、そこまでの心の余裕が生まれたのかもしれません。

 

がらくた整理の相談と言いますか、「ガラクタ整理をやりたい」、または「がらくた整理をしなきゃと思っている」という声は、意外にも多く聴こえてきます。しかし、具体的な話には進みません。こちらが提案しても、その人本人がそれ以上踏み込んでこないのです。それがわたしが男性だからというのもあるかもしれませんが、共通して言えることは、その誰もが一切行動に移していないのです。これでは、雑誌やテレビで特集しても無駄です。その人本人が、自身で一歩踏み出してもらわねばなりません。

 

 

 

自分が果たして、どこまで手伝うことが出来るだろうか?

 

 

 

師匠はこの文章を読んで笑うかもしれませんね。

 

 

 

 

 

日中でも氷点下の世界から、入居者募集の張り紙が貼られている窓を眺めつつ、改めてあの時のことを思い返していました。