つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ほんとうの「正しさ」って?

年末年始、特にニュースを意識してチェックしています。

 

 

 

というのは、おめでたいムードにかき消されるかのように、普段であれば入ってくる内容が入ってこなくなる可能性が高まるためです。報道特番等もチェックしましたが、そこで大きく感じたことは「それぞれの立場での正しさ」というものでした。

 

 

 

つまりは自分たちの立場に立てば、その発言は「正しい」「正当だ」というものです。

代表例を言えば、危険な隣国や大きな関係国など、意外にもこのスタンスをとっている例はたくさんあることがわかります。そしてそれは規模に関係がありません。個人にも当てはまりますし、組織にももちろん該当します。

 

その正しさというのが、年々孤立してきているように感じます。

つまりは、共感を伴わないものとなりつつあるということです。

 

世間でも注目されておりますある処分に関しましても、その処分は妥当ではないのでは?という声がたくさん挙がっているようです。処分理由についても、およそ世間(または世論)を無視した言い分だと。そのような声が高まりましても、組織は正しさを主張するのみ。ミスを認めて謝罪することが多くなった昨今ですが、ここまで頑なに正しさを主張するのも珍しいように思いました。

 

 

 

反面、正しさを強烈に拒否する動きも高まっています。

中身も確認せず、それだと知った瞬間の拒否です。

ここまで来ると立派な「レッテル貼り」になります。後から詳細が分かりましても、拒否をした当人はその責任を感じることは少ないでしょう。

 

そのような傾向を生んだのは、どこからでしょうか?

 

マスコミから?世論から?

特定は難しいです。

 

ただ言えることは、「情報の掘り下げ」を充分に行わないまま、その事案についての断定をしてしまっているということ。その背景には「自分に実害は及ばない」という根拠のない確信だと思うのですが、このようなことを繰り返している以上、そういった行動が癖となり習慣となります。そうなりますと、修正は容易ではなくなります。ついには、取り返しのつかない事態を生んでしまいます。そうなった場合、責任をその情報に転嫁すると思います。本人はそれでいいでしょうが、周りはそれを認めることはないでしょう。

 

 

 

それを「過ち」として受け留めてくれることもあると思います。

肝心なのは、後に続けないことです。

自分を護るためについつい自分の主張の正しさを押し付けてしまいますが、わたしたちが考える本当の正しさというのは、双方の納得や理解が基本スタンスかと思います。

 

果たして現在、そのスタンスに沿った「正しさ」があるでしょうか?

どのような主張も、一方通行が多いような気がします。

 

 

 

議論も必要なのですが、互いを知ることも同じくらい必要になっていきます。

相手(考えていること)を知る前に「それは○○だ!」と決めつけてしまっては、解決の糸口すらつかめません。しかしそこが難しいところでもあります。どの国や地域においても、どの「正しさ」を選択するかで紛糾しています。

 

 

 

ぼく自身も、これまでにたくさんの「正しさ」を一方的に主張してきました。

恥ずかしいことですが、時間が経過するにつれ、いろんなことを考え、反省し、また考えてしまいます。その正しさはその後理解されるのか?ということも含めてです。

 

ほんとうの「正しさ」を持つ。

ここに集中する必要はひょっとしたらないのかもしれませんが、意識しておいて損はないものだと思います。これまでは後日にその正しさがどうだったのかと考えることが多かったのですが、これをなるべくリアルタイムに考えることができるようになればと思っています。