つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

相手のアクションに対して必ず反応しなければならない。というのは、ちょっとした枠なんじゃないかという話。

連休中の体調不良なときになんやかんやとシビアな出来事が起きており、それに対してどうしたものかとずっと思案しています。

 

 

 

このときに決めていたことは、「体調が整わないときにリアクションをしてしまうと、かえって尾を引く」ということ。その理由はどこかで感情的になってしまうか、または自分の意思ではないことばが混ざってしまうかです。

 

つまりは返信の一語一句に「気持ちを込めることが出来ているか」という判断が甘くなってしまう可能性があったからです。

 

そこまでの結論を導くのにも時間をかけた、というよりかは、時間がかかりました。

それは何故だろうと考えたとき、ひとつの「~しなければならない」という、呪縛のようなものが見えてきました。

 

 

 

というのも、この「~しなければならない」というのは、例えば「Yes or No」の返事を相手に送らなければならないということを指します。

相手からの問いまたは連絡に対し、何かしらの返事をしなければならない。

これは友人のあいだでは礼儀であり、仕事においてはマナーだと考えていました。

この考えは恐らく、間違いではないと思います。

 

 

ただ最近、この考えが崩れました。

仕事上のやりとりは迅速かつ丁寧にという方針は変わらないのですが(そうでないとビジネスチャンスを逃します)、友人のあいだになりますと、感情などが入り混じり、思っていた返答が出来なくなる場合があります。要するにことばのケンカですね。

相手が平静を装って(または本人がそう思っている)至極まっとうなことを言ってきたとしても、そこに何かしらの「トゲ」があるならば、それはケンカを売ってきたのと同義に思います(ケンカという表現はどうかと思うのですが 笑)。

親しい間柄だからこそ、ときには際どいやりとりも生まれます。そこに自制心だとか、相手を思いやる、慮る気持ちがないと、その言葉はただ相手を傷つけ、挑発し、貶めるものに成り下がってしまう可能性をはらんでいるのです。

 

 

それに対し、どう反応すればよいのか?

どう反応すれば、大袈裟な表現になりますが「戦火を交える」ことなく、穏便に済ませることができるのか

 

 

 

導いた「展開」は、「何もしない」でした。

 

 

何と言えばいいでしょうか。これまでは、何かしら言わないとならないと考えていたのです。

それが、ここ数日の間に気づいたことを集約しますと、「何もしない」こともアリだと考えるようになりました。むしろ、そういった選択肢もあるのだと。

 

残念ながら、何もしないという「展開」にも、それなりの意思表示が組み込まれます。

それを相手がどう思うかは相手に任せるしかありませんが、いま自分自身が相手にかけることばが見つからない場合は、この方法をとっても仕方ないと思っています。

 

 

 

ひとはどこかで「反応」が欲しいいきものです。

だから、反応がないと「不安」になったりします。

もしくは、反応があってアタリマエと考え、敢えてのことばを使ったりもします。

 

それに対して「何もしない」という選択肢を選ぶということは、見えない壁を打ち破るような、それくらいのパワーを必要とする「大がかりな」行動になるものと考えています。それがどのような波紋を呼ぶかはその時々によりますが、それもまた相手に対して何らかの効果を与えることになります。

 

それが再生でも破滅でも、そうすることが最善の方法であったりする。

それもまた意思表示であり、それもまたことばのうちなのかなと思った、肌寒さを感じる1日でした。