つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

書くという行為について回る、責任の話。

ブログの管理画面を見てみますと、ブログ日数がもうすぐで900日に迫るところまで来ました。

 

ブログを始めて3年目。その3年目の半分も、もうすぐ終わろうとしています。

 

 

 

 

最初はアクセス数が一桁の日々でしたが、石のうえにも3年というところでしょうか。

読者やアクセスも増え、そして移住してからはその数も数割増しになっています。

(とはいっても、人気ブログの足元にも及びませんが。)

 

月に数千のアクセスが今のところせいぜいですが、数年前はそれすらも夢のまた夢。

月間1万アクセスを稼ぐブログに対する視線はまさしく「半端ないって」です。

 

 

  

ブログを始めた時は、勝手に使命のような、責任のようなものを課していました。

かんたんにいいますと「ねばならない」。

 

かなりカチコチの意気込みだったと思います。

 

 

 

 

記事に関してもそうでした。

家人にもああだこうだと言われて気分が悪くなりましたので、ブログを読まないでくれと言ったほどです(現在もそれは続いています)。

 

 

文体などは開始当初から比べますと、だいぶ柔らかくなりましたが、まだまだ変化は出来るものと思っています。そのためにもまずは書いていかなくてはなりませんし、色んなことを書いていかなくてはなりません。

 

 

 

今月から地元紙、北海道新聞を再び購読するようになりました。

札幌にいた頃とは違った視線異なった感情で記事に目を通しています。

最近ですが、道内記事に関しては注目する内容が連日続いています。

全国ニュースでは地震に関することもありましたし、地域に目を向けますとJRの運営に関することや、IR法案に関する北海道の姿勢など、挙げたらきりがありません。

 

問題の大小にかかわらず、新聞記事に関しては「取材」を必ずされていることと思います。

反面、取材を疎かにして確証を得ず、目の引く情報のみを列挙するという記事が違った意味で注目を集めています。

 

 

 

ものを書く自由や権利は確かにありますが、同時に責任が付与されます。

自由や権利だけを声高く言う割には、責任の所在を明らかにしないケースが散見されるようになりました。

 

今ではネット上にあらゆる情報がばら撒かれています。

あらゆるの中身は、何度も書いてきましたが玉石混合のもので、事実や真実に近いものや、大いに脚色されたものまで、ありとあらゆるものです。

 

例えば、何かひとつのテーマを記事にしたいと考え、ネットで関連の情報を調べるとき、それらの情報すべてを鵜呑みにしてしまうのは危険だということになります。

 

つい先日、とある女子アナウンサーが書いた本の中に、アナウンサーのいち仕事の内容について書かれていました。

 

そこには新聞記者が行っているような仕事を、アナウンサーも行うというものでした。

正直、これには驚きました。

 

 

 

そう考えますと、昨今のテレビ局をはじめとしたメディアが流してしまう誤報は、もうおやってはいけないものだということがよくわかります。ですがSNSで匿名を謳うメディアに関しては、その責任を負っていません。これは不公平と言うより、ちょっとした犯罪のような感じに思えます。

 

 

 

 

ツィッターであれブログであれ掲示板であれ、そこに混乱を招くような誤報や意図的な情報を載せるということはどういうことか。これからの時代はますますその部分にフォーカスされてくることと思います。

 

ぼくも記事を書くひとである以上、取材とは偉そうに言うことは出来ませんが、情報の取捨選択を正しく行う責務があります。そして、考えていることや感じることをどのような表現で伝えていくべきかをしっかりと考える必要を感じています。記事を書くことだけではなく、人間何かしら「責任」というものはついて回ります。誰かにだけあって、誰かには免除されるというものではないです。

 

 

 

きょうもあすもあさっても。

書くことにも、生きることにも、責任は必ず伴います。

それを肝に銘じて、これからも記事を書いていきますし、地域おこし協力隊という立場でも、しっかりと積み重ねを行い、活動の実績を記していきます。

 

 

 

生きるということはあらゆることに通じます。その逆もまた然りです。

流されることなく、惑わされることなく、かんたんなようで実は難しい「やるべきことをやる」というものを、着実に行っていきたいと思います。