つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「回復」または「戻る」についての話。

連日の大雨により、北海道の各地でも被害が出ています。

 

テレビ画面もL字の枠が出てきては、気象情報や交通情報を伝えるようになりました。

 

 

最初は梅雨前線が中々進まず、蒸し暑い日々を過ごしていたのですが、ここ数日で降雨量が一気に増え、河川の増水を招いたようです。

 

 

本日の北海道新聞夕刊には、高速道路の国縫(くんぬい)と八雲のあいだで土砂崩れが発生し、区間内の通行止めが発生したと報じられていました。

 

 

 

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新聞の一面に「八雲」の文字が出てくるのはそうないことなので何事かと思いましたら、まさかの災害です。これはもう、「なんなの、マジで」というレベルです。

 

札幌近郊でも石狩川が増水したという報道が流れていましたし、道北を中心に河川の水が溢れ、住宅地や田畑に届いてしまっているようです。雪の災害に雨の災害となりますと、これはもう泣きっ面に蜂状態です。

 

しかしもう、起きてしまったことは仕方ありません。

被害等が拡大しないように、注意を払っていくしかありません。

仕方ないという表現も他人事に聴こえてしまい、不謹慎に感じてしまうのですが、どうしても「仕方ない」になってしまいます。こればかりは、どうしようもないのですから。

 

 

 

この天候も、長くは続きません。続かないことを祈るのみです。

状況が落ち着いたら、復旧に向けての動きが加速することを願います。

 

 

 

 

 

ここでふと、素朴な疑問を抱きました。

 

それは、何故この世界には「回復する」または「修復する」、そして「元通りにする」といったような仕組みがあるのだろうか、ということ。

 

身体の傷も、時間が経てば塞がり、肌に再び覆われます。まさしく治ります。

機械も修理すれば直ります。その他のモノについても、元通りにすることが可能になっています。

 

これがアタリマエのことなんでしょうが、つい「なんで?」と思ってしまいました。

つまりは「何故治る(直る)」必要があるのだろうかと。

 

いや、大した理由なんてないのかもしれないですよ。

 

 

 

 

しかしながら、「カタチあるものいつかは壊れる」ということばを幼少の頃耳にしました。

このことばには納得がいくかと思います。

ではどうして、最終的には壊れてしまうものを、治して(直して)いかなくてはいけないのでしょうか。

 

この仕組みが意味するものは、果たして何なのだろうか。

 

 

 

専門的な話になりますと、細胞に備わっている能力とか、造ったものを直す技術があるだとか、それこそ理由には事欠かないのかもしれませんが、その根源が何なのか、ふと知りたくなってきました。

 

 

 

わたしたちは、どこかで壊れてしまったもの、どうにもならなくなってしまったものなどを、「なおし」たり、「もとどおり」にしたいという気持ちを持ってしまいます。そしてまた、それがいともかんたんにできるとも思っているケースがあるようです。

 

時間を戻す、ということも同じような意味合いになると思いますが、どこかで「なおしたい」または「もどしたい」という願望が強くなってしまい、あがきもがいてしまうのではないでしょうか。

 

反面、いともかんたんに「こわす」ということもやってのけてしまうのが人間。

 

何処かで元通りにしたいと後悔しながらも、どこかでは戻ることのないものの大事さに気づかずにいる。慢心であるというよりほかありません。

 

 

 

40年以上生きてきまして、数々の「なおらないこと」そして「もどらないこと」を経験してきました。それを痛感するまでのあいだ、それを大事に扱っていたかといいますと、そのどれもが「そうではなかったことがあった」ということでした。わかっていながらも、どこかで驕りが出ます。それに流されると、大事なことが見えにくくなるようです。

 

 

 

この世にはどうして「傷がつく」という現象があり、「故障する」という事象が発生するのでしょうか。そしてそれはどうして「治った」り、「元通りになる」のでしょうか。

いまわかることは、おそらくはそれが「必要なこと」だとしか言えません。

 

 

理由はわからなくても、傷はつき、そして回復していく。

そしてまた、進んでいくのです。

 

 

 

ぼくの、人間という時間も、40年を超えるまで過ごしてきました。

まだ早いわ!と言われるのですが、残りの時間の使い方、これから先の生き方や、気持ちの向け方は、若くて未熟(今でも十分未熟ですが)だった頃からはだいぶ洗練されてきました。

 

八雲町に移住して、どこかではやる気持ちがずっと自分の中に存在しています。

それは「いつまでもうかうかしていられない」という焦りと、決して長くはないであろう人生の残り時間(だって1年の経ちかたが早くて半端ないから)を、なるべく悔いが残らないものにしたいからです。

 

こんなんで同情を誘うつもりもありませんが、齢40を超えますと、自分の周りから親族がひとりまたひとりと減ってしまいますと、そんなことを考えてしまうのです。なのでしょうがないやつだなぁとでも思っていただければいいんじゃないかと。

 

ここ数年、どうでもいいような素朴な疑問が浮かぶようになってきました。

それは無駄なことではなく、悟り(または気づき)を得るための、必要な問いかけである。

 

北海道を覆った無常な出来事から、そのようなことを考えました。