つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

限りあることと、優先順位の話。【追記済み】

外回りをしていくと、どこかで

 

「今度お店に伺いますね」

 

ということばをいただくことが、ある。

 

 

 

 

正直、この言葉は嬉しい。

 

嬉しい反面、本音なのだろうかと考えてしまうことがある。

 

 そこには「時間」が絶え間なく関係している。

 

どこそこに行く、というのは、時間を割いて向かうということになる。

 

しかしそこには、「優先順位」というものが関係してくる。

 

はっきり言ってしまうと、そこで負けてしまうと、そのお店がある間にその人はお店にくるということはなくなる。

 

 

 

すべてが同列ではないということだ。

 

関係先との飲食が大事であり、お店に行くことはさほどでもない。

仮に忘れていました、と言われてしまったものならば。

 

 

それほど、このお店の存在感はないのだという現実を突きつけられることになる。それはつまるところ、自分の立場の存在証明が出来ていないということになる。

 

 

 

 

その人に逢うと、何度か「お店に行く」というセリフを聞いた。

アタマとウシロにはいろんなことばがくっつくけど。

ぼくは純粋に、その人が来ることを願い、待ってしまっている。

 

これはもう、阿呆としかいいようがない。

もはやこれは、救いようがない。

 

 

いつでも行けるからと思ってしまうと、いつまで経っても行くことはない。

そのうち、お店はなくなるだろう。

その時にその人は何を想うだろうか?

しょうがない、で済ませるのかもしれない。

 

しかし、憶えていてほしいんだ

「口約束でも 約束は約束」だということを

 

もし、ぼくがその現場から離れるときに同じことを言ってしまう人だったら

ぼくはバカ正直に、そんな気持ちを植えるだろう

 

有益か無益ではなく

ことばのもつ責任の重さを 立場ではなく もっとシンプルなところから見て欲しい

それはその人だけではないんだ ぼくだってそうだ

だからほら 今も苦しんでいる

 

 

ぼくがいるときに その人が来ることを願っている

ただでさえ話をする回数が少ないのだ

この短い 限られた時間だからこそ 大事にしたいと願うのは愚かだろうか

明日も明後日も続くと思ってしまうと やはり麻痺はするようだけど

 

 

 

 

20180818追記

 

相手のことも、相手の立場を考えてあげないといけない

そう、風がささやいてきた

あの人はあの人で 毎日を一生懸命過ごしている

それが他人には物足りなく見えたとしても

 

おそらく

ぼくとあの人の熱意には大きな差があるか

もしくは、違う世界に熱意を置いているのだと思う

だとしたら

この世界で目を引くような展開を

その人が来てくれるような活気を

生み出せばいいんじゃないだろうか

 

責めてもだめだ

批判はなおだめだ

そんな暇があるなら己の中に潜れ

追い求めることを緩めるな

 

 

 

やっと少し 目が覚めたよ

眠りから覚めたら いのちを前に出していく

出し惜しみなんてしてたら いつまでたっても動くことはないだろうから