新聞では塩害の影響で紅葉もきれいではないといった記事を先日見かけたのですが、そうでもないようです。
先日、郷土資料館を訪ねた際に立ち寄った場所があります。
それが「梅村庭園」。
北海道・八雲町にある歴史ある建物だそうです。
紅葉していたので初めて気が付いたのですが、ここは「それ」を「意識」した植え方をしているようです。赤と黄色のコントラストが、また見事でした。
紅葉を見ていて思ったのですが、わたしたちは結構「色」の変化を認識することで知るものが多いようです。
その代表格が「季節」で、あとは何でしょうか、ファッションとか、その人の表情とか。
そう考えますと、色はなくてはならない存在であるような気がしてきました。
梅村庭園を訪れた日に八雲町郷土資料館と木彫り熊資料館に訪れていますが、そのどちらでも「色」は意識しているようです。
遺跡からの出土品はそれこそ最初は材質そのままの色をしていますが、文明が進んでいきますと彩が出てきます。その中でも貴重とされる色が出たり、日常的な、なじみのある色が登場したりしています。
木彫り熊に関してもそうで、木材の色や艶を利用したそのままの作品もあれば、色を塗っている作品もあることがわかります。どうやらわたしたちは「色」をつけることでステータスを上げたいといったような思いがあるようです。
早いもので、10月ももう終わりに近づいています。
今年もあと2か月となりました。
その間、景色や人の「色」を実はたくさん見てきたのだなと思いますと、結構濃密な時間を過ごしてきたことがわかります。
ぼくはこれまでの経験上、ついその人を「見る」ということをしてしまいます。
何を見るかといいますと、表面上のものから本質まで、浅いところも深いところもです。
「人間観察」のようなものに近いですが、そこまでの専門性はなく、ただ自分の感覚の範疇で、「この人はこういうタイプかな」というイメージを持たせます。
これが役に立つかどうかはそれこそ自分自身の考え方や受け止め方が大きくかかわってきます。つまりは、使いこなせるかどうかは自分次第ということです。
その「色」をさらに引き立てるにはどうしたらいいか。
その「色」の強調を抑え、他の色とのバランスをもたせるにはどうすればいいか。
その「色」ではなく、新たなものにするにはどうしようか。
など、様々な考え方ができます。
色は「1色」だと思いますが、反面「いろんな色」が混ざり合った先の1色でもあります。
現在のその人の「色」だけで判断するのは、性急すぎることもあります。
それは自然も同じことだと思っています。
自然が常に変化しているように、わたしたちも常に変化しています。
ひとつして同じ状態であることは、ありません。
これは植物だからとか動物だからというわけではなく、いきている存在の宿命です。
「ひとつとして同じ状態ではない」ということを真剣に考えますと、単純に「ぼ~っと」していることはできないということになります。瞬間的にそうなることはある種仕方のないことだとは思うのですが、それが長期間続いてしまうのは、さすがにもったいないとしか言えません。
自然もわたしたちも、限られた時間の中で「色」を出していますし、出さなくてはなりません。何もしないときほどの色こそ、味気ないものに感じてしまうと思います。
正直、わたしの色はクセがすごい色だと思います 笑。
しかしながら、自分自身では「他の人が出せない色」を無意識に目指しているところがあります。
この「色」に触れた人たちがどのように感じていくか。
その化学反応を、見ていきたいと思いました。