つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「無傷」でいることを目指すのは逃げ。

人生40年も生きていますと、ほんとうにいろんな人を見ます。

いろんな人の人間模様といいますか、人生そのものを見ます。

それを見て、感じて、自分に言い聞かせることも多々あります。

 

最近ですが、「傷」に関することを録画した番組などで多々耳にしました。

それらの中で描かれる「傷」は、様々な立場にあります。

 

 確実に言えることは。

 

すべてのにんげんは、この「傷」を負わないで生きていくことは無理だということ。

 

しかし、受けた「傷」を「癒す」ことが可能だということ。

 

このサイクルこそが、実は大事なんじゃないかと感じています。

 

 

 

 

仕事もそうです。

 

毎日が楽しい訳ではありません。ましてや、入社したての頃は何もかもわからず、臆病そのままの佇まいで過ごすことになります。仕事を憶えることに必死でも先輩や上司のきつい指摘は容赦なく飛んできますし、しばらくのあいだは疲れも日常以上のものが覆いかぶさってきます。

 

 

 

物理的な傷や心理的な傷は、この世界に数多の数存在します。

 

それを「怖れ」ながらいますと、その場所は決して「楽しい」場所には成り得ません。

ずっと、息苦しい場所のままだと思います。

 

 

 

 

わたしたち人間のルーティンとしてあるのは、この「傷ついてから回復する」というフローなのではないか、と感じています。そういった「作用」がなければ、本来抱いている目的に向うことはできないのではないだろうかと、現状では考えています。

 

現実世界に即しても、「傷」がわかるとわからないとでは、感情の欠落に近いものをもたらしてしまいます。そう考えますと、「傷」とは何なのかを、自身が考えて感じていくことは必要なのではないかと想っています。

 

 

 

 

以前、こーんなスピリチュアリストがいました。

詳しくは忘れたのですが、いわゆる「傷」をすべて浄化だとかなんだとか。

どうやら「傷」は「穢れ」だとみているようで、それを心身から失くすことで、素晴らしい世界に行けるのだそうです。

 

これ、、純粋に「あ~あ、ざんねん」と想ってしまいました。

単純に、「穢れ」があったらだめなのか?と想うのです。

だって、そう決めているのは現状「人間」ですからね。

最初からそう決まっていたとは、誰もいえないはずです。

 

 

冒頭のほうでも述べましたように、わたしたちは「傷」を持っていますし、大きく見ますと「穢れ」も持っています。

 

それらはときに忌むべきものかもしれません。

しかし、それを遠ざけようとしても、それが「必要」であった場合は、避けることはできません。

 

ではその「傷」や「穢れ」はどうしていくべきなのだろうか?

浄化して、「無傷」にするべきなのでしょうか。

 

「無傷」でいることは、ある種の誇りというイメージを持ちますが、ぼくは逆なのです。

「無傷」でいることは、傷つくことをしたくないという「逃げ」にしか感じないのです。かといって、むやみやたらに突っ込むというのは少々違う話ですが。

 

 

 

 

この世界で生きている以上、楽しい時間ばかりが過ぎている訳ではありません。

その逆の時間だって、しっかりと流れているのです。

しかも、その時間のほうが流れている時間が長く感じてしまうという 汗。

 

その辛く、苦しい存在等があるなかで、自分はどのように居るべきなのか。

それらの試行錯誤をすることこそが大切なのではと感じました。