つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

64通りの。

昨日の日記で、ぼくが使用しています「インスピレイショナル・マンダラ・オラクルカード」全64枚の紹介が終わりました。

 

 

 

始めた時期はいつからだか既に忘れてしまいましたが、1枚1枚カードを引くことは一種の「行」にも感じました。

 

これを仕事のメニューにしようと思ったとき、自然と背筋が伸びました。

そして、大事な人に否定されると、すべてが怖くなりました。

 

 

このカードは8枚ずつにカテゴリ分けがされていることは前にも書きました。

そして、お客さんに向けてカードを引きますと、あまり相手を責めるといった「怒気」を感じることはありません。

 

ただ、自分に向けては明らかに異なりました。

 

 

決して起こっている訳ではありませんが、「だってそれが必要だから」と言わんばかりの口調で、「はい、苦しんで~」というのが伝わったからです。これをきっかけに、カードが捉えている苦しさと、人間が捉えている苦しさには「相当な差」があるのではということに気が付きました。

 

 

 

ぼくのカードは、優しすぎる。

それは果たして、相手のためになるのだろうか。

それは自分にとって、何を意味するのだろうか。

すべてが再び、渦の中です。

また探究が、はじまります。

 

 

それぞれのタイミングで引くカードは、単純に「64の道筋」と見ることはできないような気がします。

 

前途多難の・・・かもしれませんし、悠々とした・・・かもしれません。

誰にも邪魔されない時間だったりもしますと、思わぬ出来事が起こることかもしれません。

 

それは不可抗力で起こったことなのか?とばっちりなのか?

それとも充実さにかまけ、いつの間にか棚上げしたことに対しての告知なのか?

 

色々考えることが出来ます。

 

 

考えがごちゃごちゃしていますが、今自分が言えることは、

 

「自分は決して成仏は出来ないだろう」ということ。

少なくとも、これから先の世代であと何度か人間として生きることを課せられるだろうということ。

 

つまりは、「まだ苦しむ必要がある」ということなのです。

そして、苦しみながら気づきを繰り返さなくてはなりません。

そのためには、あらゆる経験が必要です。それは、人間の倫理観での取捨選択は、かえって邪魔になります。外部による意思決定は、妨げになるのではないかと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

おそらくは、これまで相手に引いてきたカードの受け止めかたと、これから相手に引いていくカードの受け止めかたは少し違うのではないだろうかと想っています。

 

そしてそれは、自分に向けてでもありますし、残された時間に対する考え方にも影響します。

 

 

おかげさまで現在は健康体ですが、「いつ」どうなるかはわかりません。

「いつか」と漠然に想っていた結果の悲しいことに、今更ながら痛感を繰り返しています。

そう感じていながらもなかなか修正できないのが辛いところではありますが、この大きな病巣を失くすことができたら、少しはマシな時間を過ごすことが出来たと思えるようになると思います。

 

 

 

 

 

 

 

「しあわせ」。

 

 

 

 

 

この語句は、ぼくが使う資格はない。というか、使うべきではない。

 

この64枚のカードが指し示す方向は、しあわせという表現では言い表すことのできないものではないかと想っています。

 

 

 

 

 

過去に紹介したカードを検索する際はいくつかのワードがあるのですが、その中で毎回使用していますのが「キーワード」という語句です。

 

カードにはその性質を現わすことばが添えられており、紹介する際はキーワードとして記載をしています。以前はカードの名前ごとにカテゴリを作成していましたが、スピリチュアルの項目に集約してしまいましたので、ご興味のあるかたは是非検索をされたうえで記事をご参照くださいませ。

 

 

からだの内部がズキズキと傷みますが、これを感じて味わいながら、歩みをはじめていこうと思います。

 

 

※まとまりのない文章ですみません