つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「知らないし」=「わたしは無責任です」

最近自分の中で「カチン」とくるワードなのです。「知らないし」というセリフ。

 

なんでここまで嫌っているのだろう?ということで、少し考えてみることにしました。

(今回はそのいち側面にかんして述べています。本来まだまだ広い範囲のものです。) 

 

 まず、「知らない」という意味や意図をもった言葉は日常で使いますが、では何故「知らないし」といったセリフに代表される表現に関して嫌悪感を抱くのか。

 

理由は「後先のことを何も考えていない」ということでした。

 

表現を変えますと、いま単純に「石ころを投げたい」と思ったとします。

それを実際に行動、つまり石を投げた際、どのような「反応」があるかを「想定」していないということなのです。

 

例えば石ころを水面に投げたとしますと、波紋が立ちます。そして石ころは下に沈みます。これだけでもちょっと考えればすぐに思いつきそうな展開ではあるのですが、それすらも考えず、「ただ投げたかっただけだし」とか「なんでそこまで考えないといけないの?」という、半ば逆ギレのような反応が返ってくるのがオチ。

 

おっさんとしては、「それはいかんだろ」と思ってしまうのです。

 

 

 

 

このように相手の心理を読み解いたと仮定しますと、例えば「あおり運転」関連の裁判の報道を見てみますと、まさしくこの「知らないし」に当てはまるんですよ。あくまで個人的見解に過ぎないのですが、「殺意はなかった」と答弁してはいますけど、普通考えたらどうなるかは想像つくでしょうと。あたかも相手側がうまくやってくれることを含んでの答弁に聞こえて仕方ありません。加えて、最悪の結果になるならないにかかわらず、それは自分のせいではない、責任ではないという表明に聞こえてしまいます。

こんな風に聞こえてしまうので、正直腹が立ちました。

 

自分が行動したことに対するその先の良し悪しは置いといて、その影響を考えずに何かしら行動し、その責任については負担を負わない人、いま増えています。

 

こういった論理が仮に有効だったとしたら、それは裁判で裁かれる側の人だけに限定されず、たとえば優良とはいえない経営者や政治家にも当てはまるんじゃなかろうか。

 

だって、そういう人たちがやっていることは「感情を煽る」ことくらい。

言い換えると「お涙頂戴」戦法なのです。

てるみくらぶの社長や、はれのひの社長もそのように見えました。

そして、永田町もそんな感じです。

 

 

だから余計に、ぼくは自分が起こす行動の先に訪れるであろう事象については責任を持というと改めて思いました。その内容が良いこととされることも、悪いこととされることもです。人はその理論前に「それダメだろ」などと簡単に嫌悪感たっぷりに言ってのけますが、そういうことじゃないんですよね。

 

良いことには責任を持ち、悪いことには目を背け、自分の過ちを認めようとしないばかりか、自分以外のせいにする。そこでしょって言いたいのです。

 

まっとうなことをいう人は周りにごまんといるけれど、「あんたがそれを言うなや」と思ってしまうケースは多々あります。それはテレビの中の世界でも、実生活でもあります。ぼく自身、突っ込まれないように、そして恥をさらしながら生きていこうと思いました。