つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

わたしたちはついつい気取ってしまいます。

牧場仕事に出ていますが、こんなに疲れるとは・・・

お昼休憩は食事後に少し眠りました。

おかげですっきりしましたが、疲れすぎてなのか食欲がありません。

これから長い期間仕事をしていくはずなのですが、のっけからちょっと心配になってきました。

 

ま、年齢もありますからね 大汗。

 

 ここ数日考えていること。

 

人間て、何かを「はじめる」こともできれば、反対に「終わらせる」こともできるいきものです。

 

 

そこに対しては「すごいことなんだよなぁ」と思うのですが、ちょっと天狗になった人を見てみると

 

「わたしはあらゆることを自分の意思ではじめることができて、終わらせることができる崇高な存在なのです」

 

と言わんばかりのオーラを発しています。

 

 

これは何もスピリチュアルな人に限らないことで、性格がそのようなタイプの人は意外にも結構いるものです。

 

 

 

こういった状況において思うことは、「自分の都合や利益に合わせて変えているだけのこと」というものです。

 

プラスに働いているときは、いろいろほめたたえるものです。

ここから始めたんだ、始まったんだという意識を強く持ちます。

しかしこれがマイナスに働きますと、完全塩対応になります。

もうすでに終わってますが何か?という、早くその存在を忘れたいかのような態度です。

 

 

対象が、人であったら。商品であったら。会社であったら。

何かしらで「必ず」、わたしたちは経験しています。

 

それとは別に、どこかで祈り、願いながらも、一瞬にして己の力量を誤る認識を持ってしまいます。スピリチュアルの世界でも、現実的な世界でも、普段の生活の中にはあらゆる落とし穴が存在しているようです。

 

 

始まりや終わりを設定することで、わたしたちは何かを明確に区別してきました。

それは何かと都合のいいことだったように思います。

しかしそれは人間側の考えや都合のみであり、時間という存在からしてみれば一切区切りなどはないはずです。ただ時を刻んでいるのみではないでしょうか。そしてスピリチュアルの面からみても、その始まりや終わりは短期的なものでしかなく、強引に区切りをつけたいだけのように感じます。それが全体として「ひとつの流れ」であったとしたらどうでしょうか?もはやそこで偉そうに「もう終わってますから」といった塩対応のセリフは言えなくなると思います。しつこいか 笑。

 

 

言葉って、人間の思考が如実に出てくるツールなんだなぁと痛感します。

冷たくなった相手とのコミュニケーションなど、如実に社交辞令だというのがわかります。どのようなことを言っていたとしても、そこに本心があるのか?という疑問を持たせます。だって相手は「区切って」いますから。その人の権限で終わらせているのです。だからどのような言葉を並べても、その言葉通りの意味には受け取ることが難しいのです。逆ですと気持ちもノリノリなんですけどね。

 

 

 

この職場に来て、今まで経験してきたことすべてが「終わっていなかった」と感じました。また「始まってなんかいない」とも思いました。

 

つまりは「ずっと続いていた」だったのです。

 

 

「市」という単位の場所から抜け出して、「町」にやってきました。

どうやらここに来たことは、本来の道筋からは外れていなかったようです。

何かと理由をつけられて批判をされてきましたが、それもすべて「続ける」ための要素であったならば、偉そうに相手のことを批判する人など・・・ね 笑。

 

 

どのように転んだとしても、その人とかかわることはもうないでしょう。

ぼくはぼくで、町はずれのこの場所で、続けるために究めていくのみだなと感じました。

 

 

すいません。きょうは写真を撮る余裕がありませんでした。