つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

生きるということは、他者とのかかわりをもつということ。

仕事をしながらぼんやりと考えていることで、「生きるとはどういうことか」といった禅問答を繰り返しています。そこに唯一の答えは見つかりませんが、ふと思いついたことの中に「他者とのかかわりをもつ」というのが大事な要素なのではないかと考えました。

 人間は独りで生きていくことも可能ですが、実は見えない部分において他者とのかかわりが発生している場面が多いように感じます。独りでいる時間帯は多くとも、瞬間ともいえる短さの中で他者が登場人物として出てきているのなら、それは独りで生きているということにはならない。ほんとうに独りで生きていくということは、自分と同じ人間という存在がいない場所に行かなければならず、また、人間と繋がるものを捨てるということになります。そうなりますと、他者とのかかわりを持たないということの難しさを痛感しますし、むしろそれを目指すのは修行に近いものになってしまいます。

 

 

他者とのかかわりは、プラスになり、マイナスになります。

それは誰もがわかっていることなのですが、そのプラスマイナスの取捨選択をしようとする、またはコントロールできるということに対する誤認識があります。

そこに人は自由を感じ、それを行使しているように見えるのですが、なんとなくそれは自由ではないように思えるのです。なんだか自分の選択行為を「きれい」にしているような、そんな感じです。

 

いいのか悪いのか、人とのかかわりが瞬間的に濃密になることもある今日ですが、その中で「無関心」にチャンネルを切り替えることも出来れば、「かかわりを拒絶する」こともかんたんに出来るようになりました。今でも表現としてはあるのでしょうが、自然消滅という状況が生まれにくくなったような印象があります。自然消滅で受け容れる行為が出来たはずなのに、なまじっかつながることが出来るから手痛いしっぺ返しをくらう。何度も何度も経験してきたことですが。

 

 

個人の意思によって他者との、具体的な個人とのかかわりをもったりもたなかったりすることがより顕在化することによって、人間といういきもののブラックな面が見えてしまったと感じている今日この頃。

 

もはやすべては無理なのですが、そのかかわりひとつひとつに、責任を持ちたいなと過ちばかりを繰り返してきた当人は思うのでした。