つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

離れた日にはいのちのやりとりを

今日は父親の命日でした。

 

午後5時5分。

今でもこの時間、この状況は忘れもしません。

永遠の別れが訪れた瞬間でした。

 

その瞬間から、30年が経過しました。

 今日はそのことを念頭においてはいたものの、牛の世話がことのほか忙しく、久々に1日を通して外に出ていました。中身は大したことをやったわけではないのですが(汗)、四肢はボロボロです。今夜は大いびき、明日は筋肉痛が待っているでしょう。

 

 

 

 

 

父が生きた年月まで、今の自分の年齢から片手ほど追加すれば追いつくまでになりました。

 

後ろ向きでしか生きることができなかった時分には、そこが自分の寿命だと勝手に決めつけていました。今はそんなことは吹き飛んだのですfが、どこかでは「父の生きた年齢まで無事に生きているだろうか」と本気で考えています。

 

 

 

いっぽうで、牛の世話は生半可なことではできません。

噛むことはありませんが、頭突き、蹴り、足を踏む。

時にはその巨体で簡単に人間を隙間へ追いやり、圧迫させます。

あ、あと尻尾でビンタ(笑)

 

どれも相応の痛さがあります。

 

 

子牛でも侮ってはいけません。

生まれてから数時間後には自分で歩く生き物なので、四肢の強さが半端ないです。

保定(その場で固定させ、動きを制限すること)にも神経を研ぎ寸ませてかからないと、牛の瞬発力に負けます。

 

牛も人間も、どちらも尊いいのちに変わりはありません。

そのぶつかりというのは過激な表現ですが、日々そのやりとりを重ねています。

 

 

 

この場所に来て実感することは、都会に蠢くスピリチュアルという魔物から遠ざかったのだな、ということでした。

 

都市部には流行が集まります。地方はその部分が停滞もしくは緩やかになります。

新興宗教の勧誘もなければ、あれこれなスピリチュアルを説く人も現れません。

そういった人たちの特徴としては、「これ(その人が進行する宗教やスピリチュアルを指す)しか救われる(または覚醒するとか云々)手段はない」と言い切ってしまうこと。

 

この世界には数多の自由が権利として認められているものの、あちこちでホンモノを主張する様子を見ると、疲れる要因がなくなったのだなと感じています。

 

 

いや、かつて自分自身もスピリチュアルのまねごとをやっていました。

現在はそれからも離れています。

今はそういう時期なのだろうと感じています。

 

 

このご時世、いかに自分のファンを作るかで躍起になっている人たちが多くなりました。反面、自分と合わない(いろんな要素で)人については卒業とかいろんなキラキラ表現を用い、円満な成長を主張するようになっています。しかしわかってほしいのは、どんな人であっても、「離れるタイミングは訪れる」ということです。当たり前のことではありますが、その時にどのように本心からの対応を行っているか。スピリチュアルに頼らない判断が「これから先」は必要です。

 

 

まぁ、好き好きでやっているから、生きていくことができるのでしょうが。

 

 

 

個人の印象としては、職場がスピリチュアルの塊になっています。

職員やそれにかかわる人たちとの人間関係や牛の関係。

現実的な課題に直結しますが、これこそがスピリチュアルだと断言できます。

ただこれは、個人の範疇の判断です。

私個人は、この場所を「成長するための場」として設定したようです。

 

だから悪霊とか、呪いとかは論外だと思っています。

(ほんとだったらとっくに、ですから 笑)

 

この場所で長く修業していけば、どのような境地に行くでしょうか。

必要だと感じた時に、対外活動を再開するかもしれないなと思いました。