つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

奪われた後は「与えられる」

昨日はダウンしてしまいました。

 

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

いきもの相手の仕事は、体力と気力の双方を使います。

これが人間相手なら・・・と思うこともあるのですが、牛も人間もそうは変わらないな、と思ってしまいます。

 だって、何考えてるかわかんないし、何を言いたいのかわかんないし。

何が望みなのかも。そこかしこで人間と共通するものを感じます。

 

 

 

ぼくの場合は牛相手の仕事になりますが、牛も人間同様、体調を崩します。

その代表格が下痢で、症状の重さによっては人間の風邪ににた症状が出てきます。

下痢の症状は子牛にみられるのですが(母牛の母乳の関係だと思う)、その治療を行うのも一筋縄ではいきません。

 

過大な表現になるかもしれませんが、「いのちといのちのぶつかりあい」にほかなりません。

 

 

そのため、仕事の後は体力・気力とも底をつくことがままあります。

一昨日はまさしくその状況で、仕事が終わった時点で既に不調が始まっていました。

 

奪われた、というのは少し違った表現になるかもしれませんが、牛相手に人間の体力など本当に微々たるもので、こちらが疲れ果ててもぴょんぴょん跳ねているときがあるほどです 笑。

 

その圧倒的なものに打ちのめされながらも、日々いきもののお世話をしています。

 

 

 

昨日の絶不調から1日経過しました。

本調子に戻ったわけではありませんが、半端な状態で再び牛を向き合いました。

本来ならまた不調の方向へ急降下、となるのですが、本日は逆でした。

 

何だか牛から、元気を与えられたようでした。

 

 

 

これは、人間相手にも言えるのではないでしょうか。

 

この世界には、奪うだけ奪う人間が確実に存在します。

その奪うという行為に関しては、その人自身の正義という自己中心的な教義によって勝手に立証され、極限まで搾取します。

 

 

反面与えてくれる人もいます。

そこには無私という空気が漂い、出勤時にタイムカードを切るかのような当たり前の行為だと定義づけています。そこには何の見返りも求めない。もし求めるものがあるとするならば、それは言葉を投げかけた相手の笑顔だと思います。

 

このふたつ両方を備えている人もいれば、どちらかひとつしか有していない人もいます。その良し悪しを論じる資格はありませんが、因果の法則上、「奪った後は奪われる」でしょうし、「与えた後は与えられる」のではないかと思うのです。

 

 

ただ今回は、奪われた(と人間の言語で認識した)相手の牛が、今度は逆に与えてくれました。人間ではこうはいかないと思います。

 

 

これまで動物というのは、犬や猫が中心でしたが、ここにきて牛を相手に生きています。

 

この境遇に、今は感謝あるのみです。