つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

【詩】まってるよ

どんなにどんなに

 

こんなにこんなに

 

かなしいことがあっても

 

くるしいことがあっても

 

かべがたかくても

 

ちからがなくても

 

しにたいとおもっても

 

だれともはなしたくなくても

 

こころをいれかえてがんばろうとおもっても

 

 

 

そのいたみはすぐにはきえないとおもう

 

だからぼくはきみをきながにまっているよ

 

きみがこのせかいにいてさえくれれば

 

またかならずあいにいくからね

 

ただいまはきみがいいというまでみまもっているよ

 

ぼくもまえにもったいたみをかかえながら

 

きみときみのえがおがしぜんにもどるまで

 

 

 

まってるよ

 

まってるよ

 

まってるよ

令和3年6月の読書感想文④ ぼくとがっこう 谷川俊太郎:文 はたこうしろう:絵 アリス館

谷川俊太郎さん文章の新しい絵本が出ていましたので、図書館にて借りてきました。

 

f:id:maruyamabase:20210606110447j:plain

ぼくとがっこう 谷川俊太郎:文 はたこうしろう:絵 アリス館

八雲町立図書館蔵

 

入学~卒業ではなく、登校から卒業までの流れを絵と文章で表現した絵本。

 

絵も文章もとても読みやすく、その一文を読み、絵を見ただけでも当時の感情がふわりと沸き起こります。

 

ああ、そんなこともあったな、あんなこともあったなと、一瞬にしてタイムスリップできます。今も昔も学校という「職場」としては大変なことに変わりはないのですが、そこに通わせてもらった身としては、とても大きな学びを得ることが出来たと確信しています。

 

というのもこの本を手に取ったきっかけが、北海道のテレビ番組で、コロナ禍におけるこどもたちを追った番組が放送されていたからです。学校に行きたくてもいくことができない子やいきたくない子など、現在は様々な背景と問題を抱えていますが、コロナという脅威はその問題をどのようにしていったのかがよくわかる内容でした。

 

学校に通うのはムダ、という見解(と行動)もあるようですが、それは人それぞれですし、その人がどのような環境と人に囲まれて生活しているかにもよりますので、それが正しいとは一概に言えないです。しかし学校(という仕組み)は、子どもを確実に成長させ、大人にしていくための道筋のように思います。その道筋を外れざるを得なかった、または外れることを選んだ人たちはその後をどう生きていくことになるのかを再確認する必要があります。もちろん、行っても行かなくても同じかもしれません。しかし、学びの機会の多くは学校に集まります。学校に通わない(この場合は教育を受けない)ということは、自然と学びの内容を(自分寄りに)フィルタリングしていることになるのではと感じています。

 

この絵本は、とても大きな共感を生む作品だと思います。

思い出を振り返ることが出来るのは、とても幸せなことだと感じました。

令和3年6月の読書感想文③ デス・ゾーン 河野啓:著 集英社

栗城さん関連の図書、本書が最後になります。

 

f:id:maruyamabase:20210605235304j:plain

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 河野啓:著 集英社

八雲町立図書館蔵

 

※2020年 第18回 開高健ノンフィクション賞 受賞作

 

 

ここで初めて著者が栗城さん以外の人になりました。

著者プロフィールを見ますと、北海道のテレビ局の方なんですね。

この本はかなり話題に上がっていたので、図書館に蔵書があり大変助かりました。

 

 

他社から見た栗城史多

 

本作はまさしく、これに尽きると思います。

もう栗城さんは故人になってしまいましたが、本人が「こうなのになぁ」と思っている(た)ところでも、彼を囲んだ他人からはどのように見えていたのかがよくわかる内容になっています。その内容はとても衝撃的かつ魅力的でありました。

 

ぼくの感想としては、栗城さんはとても「生きづらい人」なんだと思います。

(これは栗城さん本人もそのようなことを言っていた気が)

しかし高い山に登ることで注目を集めると、周りの目が一気に変わります。

本書を読んだ限りでは、「利用」目的の人しか集まっていない印象です。

特にスピリチュアル系、ネットワークビジネス系は、彼の周りに、群がっては彼を英雄のように褒めたたえ、そして集客していたのだろうなあと想像します。

 

 

 

山へ登るのはどうしてか

 

理由については栗城さん本人が語っていますが、実際はどうだったのだろうと思案してしまいます。きっと、彼は褒められたかったのではないか、というところです。

それならば彼の取り巻きに褒められているのではないか?という疑問が浮かぶのですが、恐らく彼は誰かからではなく、山の中にある神秘さに褒められたかったのだと思います。ちょっとスピリチュアルなのですが。彼自身、山に入った時の感覚をあれこれと著書において説明していますが、いち読み手としては、興奮していただけなのではないかと考えます。またこれはぼくの経験からする考えですが、山は特段褒めもしないし苦難を与えたりもしません。誰か特定の人に対し、何かをするというのは大前提としてありません。そこの捉え方を間違えると、自分の手元からいろんなものを吸われていくことになります。

 

 

 

 

改めて、「栗城さん、あなたはそこで死ぬべきではなかった。生きるべきだった。」

 

本書ラストは衝撃の内容です。読んでいただきたいので内容は伏せますが、最後の彼の状況を文字で追っていくと、どうしてもぼくには彼がそこで「死を選んだ」のではないかと思ってしまうのです。少なくとも、自力で進めるとは思っていなかったでしょう。だからこそ、治療法などで「特別な」状態になれる(かもしれない)ことを試してきたんじゃないかと思います。最後も、山の神様が手を差し伸べてくれると思っていたのではないでしょうか。しかし、山の神、広げていえば、サムシンググレートは、彼に対して何かをすることはありませんでした。

 

山を登り切った後の人生に触れるところがあったのですが、彼はそこにたどり着くのが怖かったのかもしれません。だから途中で終わらせたのかもしれない。そう考えると、彼はつくづく不器用なのだな、と思えてしまいます。プロ野球選手にだって引退後の生活がある訳で、彼だけ特別ということではないのです。そのくだりを読んで、単純に現実に戻るのが嫌だ、または怖い」と思っているのだと感じました。だからこそ、死ぬべきではなく、生きるべきだったと思っています。

 

しかし、何よりかわいそうなのは栗城さんです。以前のような純粋さはどんどん「奪われて」いきました。最後のほうはもはや登山家ではなくなっていた、というところです。そうさせたのは、彼の周りにいた、影響力の強い人たちではなかったのだろうか。であるならば、生きる指標を与えてはくれなかったのだろうかと考えてしまいます。説得するのは、難しいと思います。ですが、死んでしまうよりはずっとましです。

 

 

さいごに

この状況は何も特別な環境ではなく、普段生活している範囲でも充分に起こりうる。

この本を読んでいて、ネットワークビジネスといった類への警鐘にも感じた。

今や多くの匿名者がうまい話を持ってくる。時には実際の人間が仮面をかぶってやってくる。それを見破るのはどんどん難しくなってくる。知識をつけていくのもかんたんではない。

 

残念ながら、栗城史多さんは亡くなってしまった。これ以上、栗城さんのような亡くなり方を増やしてはいけないと、正直に思いました。

 

令和3年6月の読書感想文② 弱者の勇気 栗城史多:著 学研

栗城さんの本ですが、次にこちらを読みました。

 

 

f:id:maruyamabase:20210604210526j:plain

弱者の勇気 小さな勇気を積み重ねることで世界は変わる

栗城史多:著 学研 八雲町立図書館蔵

 

次は出版社が変わっていました。

なお、写真にある付箋は読者(ブログ主)が気になったところを貼っています。

 

構成としては写真プラス文章で、今回は文章の量がかなり多くなっています。

しかし多いと感じる反面、内容はとてもシンプルなものに感じ、読みづらさを感じない一方で、前作ほどの熱量は感じられませんでした。かといって冷静さが垣間見えるというわけではないようにも感じています。

 

 

幻想と現実は表裏一体では

 

メインは「言葉の幻想から心を解き放つ」としたチャプターで綴られた言葉のように見えます。先頭の語句に対する辞書の意味を引用し、自分の言葉で語っていく。世間一般の意味ではこうだけど、ぼくならこう捉えるよといった意思表明でしょうか。そんなところに自己啓発的な、自分を奮い立たせる言葉を選んでいます。

 

不思議な感覚なのですが、すごく現実的なことを言ったと思ったらかなりスピリチュアルな発言もされています。それは相手が山だからなのだと思うのですが、自分の感覚をすごく大事にしていると感じました。多くの方がご存じではないかと思うのですが、スピリチュアルの何が正しいかは正直わからない状態です。その霧の中でこれが正しい!として動くのは、ひとつの賭けではないかと個人では考えます。

 

 

 

人間であることの証明

 

読み進めていって、「ん?」と思うところがあったので、付箋を貼っていきました。

というのも、発言に一貫性がないのではと思ったのです。

解釈はそれぞれかと思うのですが、自分が疑問に感じた点を挙げます。

 

〇2006年ビンソンマシフに登山した際、単独での登山は手続き上認められず、他のグループに同行して登ることになります。しかしそれが納得いっていないのか、最後尾で栗城さんは号泣します。そのトリガーになったのは、その隊のメンバーが笑いながら、楽しそうに登っているからだと書かれておりました。(本書76P)

 

〇登山で最も危険なのは、執着することと書かれています。(本書180P)

 

〇楽しめているかどうかはひとつの判断基準なのだと書かれています(本書227P)

 

この3点を見ると、2006年の登山で彼が号泣した理由がわからなくなってしまいました。言うなれば彼は単独で登ることに「執着」していたのではないかと考えられるからで、そこには相手が楽しんでいるかどうか「よりも自分が」楽しめているかどうかが重要という点も垣間見えてきました。

 

正直こういったブレのようなものは、彼だけにあるものではないと思います。

ぼくにも、他の方たちにも、こういったものはあると思っています。

その背景には、当時の彼なりの苦しみがあったのではないかと想像しています。

単純に山を登ることだけできていれば、熱量は前作を上回るものであったと想像しますが、本作では言葉でそれをカバーしてきたように思います。

 

彼が悪いわけではないのですが、周りの環境が大きく変わったのだろうなと思いながら、読み進めました。

 

 

 

 

 

令和3年6月の読書感想文① NO LIMIT 自分を超える方法 栗城史多:著 サンクチュアリ出版

デス・ゾーンという本を読んだ後に栗城さんの著書にも目を通したほうがいいだろうと思い、図書館で借りてきました。

 

 

f:id:maruyamabase:20210604202353j:plain

NO LIMIT 自分を超える方法 栗城史多:著 サンクチュアリ出版 八雲町立図書館蔵

 

肩書には「世界七大陸最高峰の単独・無酸素登頂に挑む若き登山家」とありました。

 

 

 

 

勢いがあるぶん、自己啓発本と思ってしまう

 

本書はかなり読みやすいです。文字もさほど多くなく、写真も多め。文章だけではなく、文章プラス写真で相乗効果を上げようとしている感じです。かといって決して書いていることがハズれているかと言えばそうではありません。すごく現実的なこともおっしゃられていますし、反面スピリチュアル的な発言も見受けられます。それは彼が山に登っているからこそ、下山しているときの考えと山に向かって歩いているときの考えとがはっきりとあるのだと思います。

 

 

 

この本には「熱」がある

 

読む順序が逆になっていても、この本に込められた熱意が伝わってきます。

このような表現は避けるべきとは思いますが、山に登ることに対して純粋な気持ちや考えが綴られていると思います。だからこそ、その喜びや悲しみ、辛さといったものが鮮明に記載され、伝わってくるのだと思います。

 

 

 

自分を超えたらどうなるのか

 

タイトルに自分を超える方法とあったので、超えたらその後はどうなるのかみたいなことは書かれているのだろうかと思ったのですが、そこまでは書かれていないように思いました。なんとなくですが、決意表明のような感じで本書は締めくくられていたと感じています。

 

 

 

この頃の栗城さんはとても輝いていたということがよくわかる本でした。

次回は次の本、「弱者の勇気」の感想を述べます。

朝食・昼食・夕食。

所用で函館に1泊(もちろん最新の注意を払い)してきました。

 

宿泊したところは函館駅前にあるシェラトンホテル。

モニタープランで洋朝食を選びました。

 

 

f:id:maruyamabase:20210603204029j:plain

普通に食事するとお値段¥2.000だそうですが、これを見ると納得です。

 

f:id:maruyamabase:20210603205211j:plain

テリーヌですが、こういうものが朝食で出ることが驚きです。

もちろん美味。

 

 

f:id:maruyamabase:20210603211051j:plain

オムレツのソースはトマトなのですが、あらごし感がすごい。

酸味もしっかりありました。

 

f:id:maruyamabase:20210603211224j:plain

ヨーグルトの上にあるのはホテル特性のリンゴジャム(またはソース)だそうです。

こちらも美味。フルーツの盛り合わせが嬉しいです。

 

f:id:maruyamabase:20210603211341j:plain

雲が目立ちますが、すがすがしい朝でした。

 

 

 

さてこの日の昼食はテレビの影響もあり

 

f:id:maruyamabase:20210603211831j:plain

f:id:maruyamabase:20210603212421j:plain

元祖 小いけさんで「ハンバーグカレー」をいただきました。

 

テレビでも言っておられましたが、薬草(漢方?)独特の苦みがありました。辛さはそこに隠れているような食感です。しかし汗は確実にじわりと出てきます。薬膳に近いですね。ここには丼物もあるので、ちょっと通いたいです。

あ、テイクアウトもありだな。

 

駐車場は店前に5台分のスペースがあります。

近隣にコインパーキング等があるかは未確認です。

 

 

f:id:maruyamabase:20210603212943j:plain

自宅に戻り、夕食はハセガワストア(ハセスト)のやきとり弁当になりました。

八雲町でもキッチンカーで定期的に来てくれているようなのですが、何せ離れた場所&告知が届かないので、いつも七飯町藤代の店舗にて購入しています。

 

 

 

この日は食事を楽しむ1日になりました。

所用も済ませ、ちょっと買い物を楽しみ、ゆっくりと八雲町まで戻りました。

長居できないのは残念ですが、脅かされている事実があることに悲しみを覚えます。

(昨今いろんな主張がありますが、実際の現象として)

 

昼食は不自由なく外食でいただくことは可能ですが、夕食はまだまだトンネルの中。

寝て起きたらいつの間にか消えてなくなっていた・・・ということにでもならないかなと願うのでした。

このご時世だからこそ、気分を上げる宿泊。

先日ですが、函館で所用があったため、前日入りして宿泊しました。

ただ仕事を終えてからの移動であったので、チェックインが遅い時間になりました。その他の心配事としては夕食です。緊急事態宣言が出ている状況のため、遅くても21時には閉店になっているであろうという予測で移動しましたが、幸いにもこの日は外食にありつくことが出来ました。

 

その話は以前の日記に書いています。

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

こんなにも時間を気にした食事は久々でした。

 

無事にお腹も落ち着きましたので、ホテルにチェックイン。

 

事前にあちこちと宿泊料金を比べていましたが、あまり金額の差はなかったので、JR函館駅前にあります、シェラトンホテルに宿泊しました。

(正しくは、フォーポイントバイシェラトン函館)

 

travel.rakuten.co.jp

 

宿泊は素泊まりを考えていましたが、朝食がコンビニというのも少し寂しいな・・・と考えていたため、今回は「モニタープラン」をセレクト(限定プラン)。朝食はホテル内にあるレストランで、和食・洋食いずれかをセレクトできるというものです。条件としては、利用後数日以内に口コミの投稿が必須となっております。

 

さて無事にチェックインしたのですが、フロントで「シングルのご予約をいただいておりましたが、状況によりツインのお部屋をご用意させていただきました」との案内がありました。いわゆるアップグレードですが、当日の予約状況とフロアの利用状況で宿泊するお部屋が替わるようです(推測)。実際に予約が入っていたフロアはわかりませんが、案内されたお部屋のフロアは他にも宿泊客が多数いらっしゃいました。

 

 

ではお部屋を確認です。

 

f:id:maruyamabase:20210602214414j:plain

広々としております。

 

f:id:maruyamabase:20210602214452j:plain

こちらも十分な広さです。アメニティもシックで品があります。

 

f:id:maruyamabase:20210602214547j:plain

暗い状況のまま撮影してしまいましたが、ソファがありました。

 

f:id:maruyamabase:20210602214714j:plain

イスもおしゃれです。

 

f:id:maruyamabase:20210602214750j:plain

部屋にはミネラルウォーター(七飯町の夢水気)が無料でどうぞと置かれており、そのそばにコーヒーマシンがありました。近くに写真のような箱があったので見てみると「UCC」とありました。中には・・・

 

f:id:maruyamabase:20210602214935j:plain

コーヒーのポーションが入っていました。これを機械に入れて珈琲を淹れるようです。

 

実際にいただいてみましたが、とてもおいしかったです。

 

f:id:maruyamabase:20210602215042j:plain

部屋の窓から函館駅方面を撮影。

 

まだ明るいということに救われた気がしました。

自粛ムードで街明かりが消えているという話を聞いていますが、ここは大丈夫のようでです。しかし大門地区などの方向はやはり明かりが消えており、年末年始かというほどの人気のなさでした。

 

この日はゆっくりと湯船に浸かり、牛の鳴き声を気にすることなく就寝。

しかし身体はこの状況でも早起きをさせるようで、いつもと同じ早朝に起床。

悔しくて3度寝くらいしました 笑

 

 

たまの宿泊はいいものです(ある程度の注意を払う必要はあります)。

明日の日記は、ホテルの朝食と、外食でいただいた昼食の話をします。

ありがたい夢 変な夢

昨夜ですが久々に夢を見ました(夢を見たという記憶が残っていました)。

 

 

相変わらず脈絡のない夢なのですが、こんな夢を見ました。

 

 

 

両親が夢に出てきた

 

親が夢に出てくるってそうないと思います。ましてや両親は初めてだと思います。

ぼくの父親は既に亡くなっており、しばらくのあいだは夢でいいから出てきてくれと願ってばかりいました。それはかなり後になってから叶うのですが、今回見たシチュエーションは

 

・ぼくが仕事で朝帰りする

・母親が仕事について叱り(もしくは心配?)している喋りをする一方で、テレビ前のソファに座っている父親がこちらを見ている

・父と母の姿は、恐らく自分が記憶している若いころの姿だった

 

というものでした。

夢の中では、ぼくはただただ母親のいうことを聞いていました 笑

これは今も昔も変わりませんね。

 

これが意味することはわかりませんが、両親が夢に出てきてくれたことはとても嬉しい出来事と捉えたいです。

 

 

 

 

理屈がおかしい 変な夢

 

夢の中の母親がこんなことを話していました。

 

札幌市の〇〇区のあのあたり、埋め立てをするんだって。

その埋め立て用の材料に、人間のう〇こを使うんだって(真顔)。

 

 

 

え?

う〇こ・・・?

 

 

と、頭のなかではてなマークが浮かびつつも手渡された資料(札幌市作成のもの)には、きちんとその場所の埋め立てについて、人のう〇こを使って行うと記載されているではありませんか(しかも図解入りで!)!

 

こんなバカげた話、夢でしかありえない話です。

起きてからもしばらく笑っていました。

 

 

これらの内容が吉と出るのか、凶と出るのかはわかりません。

言えることは、同じような毎日でも少しずつ何かが違うので、それを含めて毎日をしっかり感じ取り、実感して生きていくことが出来ればいいなということです。

いまはいろんなオカルトがあるようなので、前兆とされることが多すぎる気がします。それもすべて、その人たちの都合なんですけどね。

 

夢の中で逢いたい人はまだいることを思い出しました。

会話はできなくてもいいから、一目会えればと思った6月最初の朝でした。