つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

今月のねこ。

本格的な寒さになって参りました。

 

 

我が家にねこを迎えて1年が経ちました。

 

きょうも元気に過ごしています。

 

 

飼い主のほうはというと、あれこれとおどおどすることが少なくなりました。

それでもまだまだわからないことが多く、試行錯誤の日々が続いています。

 

ねこのほうはといいますと、飼い主の意向などおかまいなしで、いろいろと冒険と要求をしてきています。それだけ垣根が低くなったと思えばうれしいのですが、時にはこちらの時間を削られることにもなるため、中々に大変です。

 

夏場は別室で面倒を見ていたのですが、光熱費の高騰もあるため、この冬はなるべく一緒の空間で過ごすことにしました。そうなると目を離すことが出来ない時間帯が出来るのですが、そこは集中力を今一度奮い立たせて、仕事等をスムーズにこなしていかなくてはと考えています。

 

 

飼い主もねこも健康に過ごす。

最近特にこれを思っています。

老いて「害」になっていく怖さ。

46歳。

 

まだまだ働き盛りの年齢ですが、家人からは「初老」と呼ばれております。笑。

 

 

 

ここ数年の話ですが、老いていく怖さを感じています。

 

〇身体の可動範囲が狭まっている

 

〇思考能力が鈍りつつある(理解に時間がかかる)

 

〇粘り強さといった忍耐力が低下する

 

〇食事の量が減る

 

〇酒が美味しくなった(これは違うか?)

 

 

 

何かと最近衰えを感じるようになったのと同時に、周りに何かと迷惑をかけてきているような気がしてきました。若いころに比べて、時間をかけるようになったというのがひとつの理由です。

 

もはや、素早い判断を自分に求めることは難しくなってきています。

しかし世間は早さをとにかく求める傾向にあります。しかしそれを急いては相手が弾けるだけなのではないかと感じていますし、自分に当てはめて考えてしまいます。

 

自分より上の世代の人たちの会話を観て、「こうはなりたくないな」と思っていたことが最近は「自分も気を付けないとな」に変わっていました。年齢による変化は考え方の変化につながっているようです。これからは、自分が「害」にならぬよう気を付けるだけではなく、自分の衰退化を受け容れていこうと思います。

野生動物との「対話」は可能か。

新聞を開いて記事を読んでいると、野生動物がしばしば市街地に出没しては、農作物を食べて行ったり、車や電車といったものに接触したり、時には人間と鉢合わせになってしまい、人間が傷つくという出来事が起きているようです。現在は野生動物に関し「保護」の色合いが強いためおいそれと手を出すことはできませんが、その一方で「個体数」は爆発的(敢えてこう表現する)に増えており、保護だの何だのと言えなくなってきている状況にまで追い込まれています。

 

 

札幌市内で熊の出没が相次いだ時、どのような団体だったか忘れましたが、笹薮等を借り払いすることで「境界」を整備し、熊が出没する確率を下げたという実証がありました。じゃあこれをやればいいではないかということになるのですが、境界は個体数に負けるのではないかと危惧しています。境界で分けられた側に食べるものがなければ、劇的に増えた個体数は一斉にその境界を超えるのではないか、という危惧になります。

 

そのため一部報道では、個体数の増加に歯止めをかけるべきではないかという議論があがっているようです。保護推進の立場の方たちからしてみれば「けしからん」ことになるのですが、野生動物が今後も増えていけば、確実に経済は混乱へと転がっていきます。それは行政がどうにか考えろというのは野蛮な論理で、保護だけを叫んで他は何もしないというのは、現代となっては無責任になります。こういった主張をする個人や団体が多いと感じてしまうのが、極論ではありますが野生動物との「対話」を阻んでいるのではないでしょうか。

 

 

人間と動物とでは話している言語がことなりますので、言語による意思疎通はできません。しかし、時間をかけて一緒に過ごしていますと、言葉に頼らない状態で、相手の求めることがわかる(ような気がする)ようになっていきます。それでもここでできるのは、「相手の求めに応じる」程度のもので、高度な意思疎通は相変わらず難しいと感じます。そのうえで対話をしていく状態に持っていくとなると、相手の習性を利用したものにならざるを得ません。しかしそれですらもすべて解明されているわけではないので、手探りの時間が長く続くことになります。大学といった、研究ができるところで進めてほしいものですが、結果を求められる現代においては、重宝されない分野になってしまうと思います。

 

 

ああすればいい、こうすればいいというイメージは多くの人にあると思います。

「現実的な」保護するにはどうすればいいかということを、普段の行政だけではなく、選挙といった大事な局面でも一緒に考えていく必要があります。このままでは、野生動物も人間も、満足に生活が出来なくなる未来が来る可能性だけが残っています。

 

頑なな態度は(お互いの)、衰退を招くだけと感じています。

宗教はいちどなくなればいい。

安倍元首相が選挙応援演説中に射殺されてしまった事件は風化しつつあり、代わりに犯人が育った環境にかかわっていた宗教法人(団体)への関心等が強まっています。それに呼応するかのように、その他の宗教法人(団体)への関心といいますか、嫌悪の視線が強くなっているような気がします。

 

 

 

歴史を観れば、宗教が行政や文化など、様々な分野へ深く影響を及ぼしたことは事実で、良くも悪くも地域や社会が発展していったという結果があります。昔は宗教がよい意味でうまく働いていたと思いますが、昭和の終わりから段々と宗教の「使われ方」が変わっていったように思います。

 

 

以前は通用していたものが、現代では通用しなくなってきている教義は幾つもあると思います。

 

その中でも違和感が強く残るのが、その宗教の(現)代表が神や仏といった、救いの存在であると定義されていることです。生きた神ということになりますが、それでいて悩みや病のすべてを癒すことはできず、信者の信仰心の低さを言い訳にしている節があります。個人的には、信者の信仰心に関係なく施し(癒し)を与えるものと考えていますので、あくまで個人の解釈と乖離するところがあります。

 

文化文明が進む(いちおう)につれて、宗教上の教義や神・仏といった世界に関する矛盾(受け容れきれないものと定義)が露わになってきていると同時に、その組織をどう維持していくか、どう拡大していくかのみが焦点になってきているように感じます。何度も主張しますが、宗教法人(団体)はもはや「会社」と一緒です。利益を求めるために活動していることにほかなりません。

 

 

様々ハードルはあると想定しますが、ここでいちど、「宗教」を無くしてみたらどうなのか?ということを言いたいと思います。制度上はなくなりますが、実態としては残るでしょう。そして、何かと「保護」されている状態から切り離すことで、その団体の新しい何かが見えてくるかもしれません。完全に消し去ることは不可能と考えていますが、何かしらの改革を促すことはできるかもしれません。

 

 

何が正解かはわかりません。ただ、宗教は現在とても「やっかいな」存在となっています。その「やっかい」な部分を公的に取り除くことで、宗教に対する身構え方が大きく変わるのではないかと思います。

力が抜けても。

旭川~札幌の旅(または修行)が終わって戻ってきましたら、理由もわからず力が抜けてしまいました。御酒印も御書印もまだ道半ばであるにもかかわらず、です。

 

 

一瞬、振られた(誰に)?という考えもよぎりましたが、そんな余裕もなく。

 

 

しばらくは何もできない状態でいました(それでも仕事は普通にこなしました)。

 

 

力が抜けてしまうという表現は、糸が切れてしまうことに似ていると思います。

今回、自分の力が抜けてしまう理由はありませんでした(疲れはある)が、何かの拍子でそのようなことがあるということを考えると、頻繁に旅に行くことは今後難しくなってくるのではないかと思うようになりました。旅とはいえ、自己責任の行程です。運転等もすべて自分で行うというものになりますので、それなりのメンタルが求められます。その維持が難しいのであれば、無理して外に出る必要はありません。外に出ず、本を読んだりCDを聴いたりDVDを観たり記事を書いたりすることもできます。そうして穏やかに過ごすことも、実際は可能なのです。

 

 

 

色んなものを集めるのが趣味になって、収集癖があるのではと家人に言われました。

それは当たっているのかもしれませんが、実際は遠出をしたいだけなのかもしれません。また、一人旅がしたいという思いからなのかもしれません。何かを集めるというのは、きっかけにしかすぎないのです。

 

今後も何かのタイミングで、力が抜けることはあると思います。

本当にもう立てないほど力が抜けることもあります。

ただ、立つことを忘れた、または諦めたわけではない(と、その時の自分を信じたい)ので、力を蓄え、またいずれ動き出したいと思います。

決まり事を破るのはカッコイイのか。

わたしたちは社会の中で生活しています。

社会の中にはある一定のルール、いわば決まりごとがあり、それに従っています。

この場合の決まりごとは、法律や義務といったものが含まれると考えてください。

 

世間には、一定数この決まり事をまもらない、破る人たちがいます。

 

昔からそういった人たちはどことなく羨望のまなざしで見られていたような気がするのですが、どうでしょうか。

 

 

その背景を探ると、その決まりに従うのが嫌だとか、ダサいとか、いろんな理由があると思いますが、一番の理由は「承認欲求」のような気がします。そのように考えると、刺激的(なかには挑発的)な言動で視聴者を煽る人たちがいるというのは、うなずけます(先ほどの内容には収益、自分にとってプラスになることが加わる)。

 

そのように考えたとき、決まり事を破るのはプラスになるのか?という問いが生まれます。やったもん勝ちという言い方がありますが、だからといっていつまでもできるものではありません。どこかで強制ストップがかかるのではないでしょうか。

 

カッコイイと自惚れるのも時間制限があります。それを過ぎたら(賞味期限を迎えたら)、ただのワガママにしか聞こえなくなることを、世間は知らしめたほうがいいと思います。

傷ついたとアピールする人は、傷つけることを考えない。

世間というのは怖いもので、

 

自分が傷つけられた ⇒ 訴えてやる! という流れがあるのは想像できるのですが、その傷つけられたという人が

 

こいつは〇〇だから、何をしても(何を言っても)いい!

 

という流れに(半ば強引に)持って行ってしまう流れまでがセットになってきています。

 

 

それは自分が

「傷つけられてはいけない存在であると同時に、他人への批評(と個人で認識)を行うのはまったく問題ない」

と思っているから。しかも他人への行動がどうにも「アクが強い」と感じてしまうのです。

 

 

自分は強いのか弱いのかわかりませんが、数多の声に対してすぐ「傷ついた」と弱さをアピールするのですが、その一方でタコ殴りに近いことを他人に行っています。

それを「傷つける行為」とは認識せず、「正当行為」と信じて疑わないのです。

こうなるともう、手が付けられません。

離れるのが得策ですし、この方にとって本当にショッキングなことが起きない限り、この方が納得(または心底理解する)することはないものと考えます。

 

 

相手を傷つけるのは、良くない行為です。

難しい話だとは思いますが、これがなくなってくれればなと願うばかりです。

日本は「いじめられている」という仮説。

ここのところの国際情勢や国内情勢を見て、日本という国はとても不憫な国だなと思うようになりました。印象としては、「何をしても褒められない」というものです。頭を押さえつけられているか、何かをしようとするのを邪魔するかのように、野党の政治家やマスメディアがこぞってネタを探してきます。

 

ここで思うのですが、大まかな意味で日本のことを悪く言うひとたちがいます。

税金を払いたくないとか、いろんな理由で日本はクソだ、と。

以前には、「保育園落ちた日本死ね」というワードも流行りましたね。

日本という国家は国民に対して「何もしていない」ということを吐露したものですが、実際には「何もしていないわけじゃない」のです。

 

ではどうして、ここまで剥離が生じるかということになるのですが、単純に国民の求めるものが「高すぎる」からだろうと推察しています。目標が高いということでもありますし、費用が高いということでもあります。他国の事情を引き合いに出して、日本は無能だと批評または誹謗する人たちがいますが、そこは国の事情や経済圏、文化の違いがあるので、比べても比べようがないと感じています。だから「移住して」としか言えなくなる結末が見えてくるのです。

 

日本という国は、政治家からも、多くの国民からも「いじめられている」という感覚を持ったとき、少ししっくりきました。おそらく、外国からも外交等の関係で「いじめられている」と思います。結果を求める流れになってしまったことで、これまでのプロセスは評価の対象に含まれなくなった感じがあります。そこを無視して結果を残せというのは、とても難しいと思います。やんややんや言うのであれば、その「発言した人」が、政府に任命してもらい、是非やってみていただきたいという気持ちになるのです。

 

 

そして不安なことはひとつ。

日本は「死ぬことはないのだろうか」というものです。

国内では、年齢に関係なくいじめの報道が流れています。その中で失われてゆく命もあります。

 

たくさんの存在が日本をいじめているならば、その日本はいつしか息絶えてしまうなんてことがあるのではないかという仮説に、個人的にですが、不安を憶えました。

 

そして、いじめに対する対抗措置を取るという未来もあるのでは、と不安を憶えました。