つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

いまの【お金】と【スピリチュアル】に思うこと。

SNSではほぼロム専なのですが、こういった激動の時代にはやはり、【お金】と【スピリチュアル】の業界はざわざわし始めます。

それはなぜかといいますと、『ビジネスチャンス』。

 

お金に関しては、「こんな時だからこそ確実に利益を出せる」とか

スピに関しては、「この時代に合わせて救いの手が差し伸べられた」とか

 

とにかく「一緒にこの舟に乗りましょう!」的なことを言っては相手を誘います。

(明確な勧誘ではなくても、相手の心理的に弱いところを突き、相手を動かすことも当てはまります。)

 

そして、共通して言えることは、その話を聞いたあなたは「ラッキー」だ、というような、「運のよさ」を称賛すること。そして「ここから一緒に上り詰めていきましょう」と働きかけることです。

 

 

なかなかできたシナリオですし、相手の不安を誘うには、現在の状況はまさしくもってこいです。

 

 

 

じゃあ、実際にわたしたちが受ける恩恵(お金やらスピでいうところの悟りとか救いとか)は、このような形でしか出逢うことが出来ないのだろうか?と考えたところ、

 

 

「ない。」

 

という結論に至りました。(個人の感想です)

 

 

 

 

うまく説明できるかどうかはわかりませんが、理由を述べていきます。

 

 

〇お金について

お金を楽して儲ける、というのは、誰もが夢見る状況なのですが、実際は毎日一生懸命働いた対価としてお金を得ているところが大きいです。その「仕事をしてお金を得る」行為について疑問や批判を呈し、テーブルに出された理想的(に見える)な稼ぎ方は、やはりその相手を釣るためのエサでしかありません。すでに多くの方が言及されていますが、まず人の感情として、楽してお金を稼ぐことが出来るようになれば、それを他人には教えないでしょう。貢献のために教えると書いている人もいらっしゃいますが、その貢献方法にも大いに問題があるように思えます。というよりも、貢献の意味をはき違えている、と言ってもいいのかもしれません。そして、貢献の需要と供給のバランスを見ていると、圧倒的に需要のほうが多いです。そして、供給は見たことがありません。画像でそれを証明している方もいるそうですが、コメントや他の分野でそのような発信をついぞ見たことがないのです。つまりはそういうことではないでしょうか。

 

 

 

〇スピリチュアルについて

こんなご時世だからこそ救われたい、自分は生まれ変わりたいと思い、願う人は多いと思います。しかしそれは「いまこのとき」だけのものではなく、ずっと前から延々と続いてきているのではないかと思います。古くは宗教、そして今は新興宗教やスピリチュアルと名を変えているだけで、実際の動きとしては大きな変化はない、と思っています。ぼく自身の経験を踏まえてお話しますと、信仰するための最初の一歩はどこも「信じれば救われる」だと思います。つまりは入信・入会といった、その団体に属することが救いやら解脱やらの条件として挙げられます。そして導入部分においては「それだけでいい」といったようなことをつぶやきます。それならば、ということで所属する人たちも多いように思います。

 

ではその後の実際はどうなのかと言いますと、それで無事終了!というわけにはもちろんいきません。かんたんに言えば「更なる高み」を求められ、あれやこれやとその方法を指示されます。表現としては「お布施」のようなものだったり、「勧誘」のようなものだったりします。それをやらないと「あなたは変われない」と言われるのです。あれ?おかしいな?最初は信仰さえすれば大丈夫とイワレタノニ・・・

 

その背景には、前述の「お金」が深く関係しています。

活動にはお金がかかります。規模によって出費も大きくなります。

それを賄うためにはどうすればよいか?

活動費を集めるしかありませんよね。

ではどうやって集めるか?なのです。

いま多くの宗教やスピリチュアルは、コレを繰り返しているだけではと感じています。

 

そこに本来の救いや悟り、解脱といったことがあるのだろうか?と、個人的には思います。ぼくは現在どの宗教団体にも属していませんが、それまでは30年以上ものあいだ、ひとつの団体に所属して活動していました。そしてある日、疑問が湧き、その団体から身を引きました。

 

いま、成長も救いも悟りも解脱もアップデートなどもすべて、残念ながらお金を集めるための「手段」にされてしまっています。純粋な欲求に対する提案ではなくなってしまっているのです。その時点で、その教えは間違いだと思います。恐らく本来の意味での宗教はそういったものではないはずです。悲しいことに、今の宗教やスピリチュアルは「会社化」してしまいました。まさしく「売り上げるため」の宗教であり、スピリチュアルであると考えます。

 

 

〇まとめ

スピリチュアルについては自分自身が人生の多くの時間を過ごしてきたことから、少し文字数が長くなってしまいました。お金には現在のところも縁はありませんが、お金もスピリチュアルにつなげられている感覚はあります。ビジネスは多様化していますが、甘い言葉も多様化しているのではと感じています(幸いにも自分の耳には聞こえてきていないですが)。

 

現在の考えですが、お金については苦労することが大前提としてないと、今後の収入アップにはつながらないと感じています。その苦労も机上だけのことではなく、頭と体を動かしての苦労になります。画面だけで動いていく数字を見ても、それは裕福とは違います。ゲームのようにサクサクと、といった表現をいつだか見たことがありますが、簡単に稼いだ!という人がいたならば、その先どんどん稼ぐことは出来なくなるでしょう。

 

そしてスピリチュアルですが、誰かに師事するとか、どこかの団体に所属しても、ほんとうの気づきに至るチャンスはほぼなくなってしまうと断言します。ただでさえこの分野は何が正解なのかはわからない状態で、「これが救われるための手段です」と言い切るのはとても危険です。だからこそ、そのように言い切る人がいたとしたら、背景に何があるのかを考えるべきなのです。集団に属さなくても、誰かに師事しなくても、気づきの材料は日常の中に散りばめられています。求めている行動そのものを否定はしませんが、自分が納得するための要素ばかりを探していては、元も子もないです。それであれば歩みが遅くとも、一人で考え、行動を起こしていったほうがまだ尊いです。

 

地方よりはやはり都市部のほうが、いろんな存在が多いと思います。

どうか惑わされないでほしい、と願います。

ぼく自身も大層な人間ではありませんが、個人の範囲でなんとか気づきを得ることが出来ています。それくらいでちょうどいいのだと思います。

 

収入やら救いやらというものは、急いで手に入れようとするとしっぺ返しをくらってしまう傾向にあるようです。その判断は自分の責任になりますが、自身の直感を時には疑い、そして時には誰かに相談してみる勇気を持ってみましょう。内側に抱え込むとその感情は寄生します。そして、正常な判断を妨げることになります。

 

以上は自分の経験に基づいた、お金とスピリチュアルについて思うところを書きました。

 

 

文字ばかりですいません。

うまくいかない日々はある。

2日連続で不慣れな水場の仕事をしてきました。

ただこれで終わり、という部類のものではなく、定期的に点検等を行わなければなりません。当初、水場の仕事に直面して着手したときに感じたことは「水難の相」が出ているだろ絶対と思えるほど、この問題がついてまわりました。これは現在進行形ですが、もう腰を据えていかないと痛い目を見るな、というのがじわりと感じています。

 

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どこの誰にでも

 

 

「ずっといいことがない」

 

 

と思えてしまう期間はあります。それが時には、出口のないトンネルのように感じることもあると思います。矛先は常に自分に向けられ、やってもやっても終わらない。しかし周りは冷めた顔をしていて、自分をぞんざいに扱っている。そうしてどこかで自分の価値はどうなのかと考えるようになって、心身のバランスを崩しがちになってしまう。

 

新年度も早2週間が経過しましたが、「出勤初日で無理だと感じたので」と、現場をリタイアする声がネット方面から聞こえてきました。果たして、その人は「職場」をどのように見ていたのでしょうか。それとも、その人の何かが足りなかったのでしょうか。

それを評するのは、やはり難しいと思います。

 

 

 

わたしたちはどうしても、良いことの余韻よりも良くないことの不快感のほうを長く感じてしまうようです。悲しいことに、実際に長い期間の場合もあります。今でも飛び込んでくる悲しいニュースが語るのは、感情の抑揚もないただの事実。一体どれだけの人が悲しみ、そして怒りを覚えたことでしょう。その悲しみを生んだ人間は、この先どのように生きていくのでしょう。わたしよりも若い世代は、いのちなどゲームの残機ほどにしか思えていないのでしょうか。それはとても、悲しいです。

 

 

特定の人に対してでしか優越感を持たなかった人間でも、うまくいかない日はこの先必ず出てきます。それはすべての人間に、共通に与えられた権利のようなものでもあります。それをどのように受け止め、やり過ごすのか、がっぷりと向き合うのか。それによって今後の展開が大きく変わってきます。それが人生なのです。

 

 

環境によっては口には出しませんが、慣れないうちは「練習(演習)」が必要です。

誰でも、いきなり本番はキツいです。そもそも無理という場合もあります。

それをあたかも「自分は〇」と誇張し、相手を見下す行為も蔓延しています。

それもこれも、うまくいかないのが「いやだ」と思っているからなのかもしれません。

それでしばらくは誤魔化せると思います。うまくいかなくなってきたら、次に移る。

そうして生きていく人が多くなってきているように思います。

そして、自分が悪い、とは思わない人も。

 

 

 

 

写真にはないのですが、水場の仕事をしている際、「ホーホケキョ」とどこかで鳴き声が聞こえました。ただそれも練習中のようで、しきりに気になるところを繰り返し鳴いていました。春の訪れを告げるにも、練習が必要なのだなと感じた時間がありました。

そこには、上下もなく、うまくいくいかないもない世界がありました。

雪の下から草の芽が陽を探す光景を見ながら、自分もこうありたいと思いました。

 

今年の運勢。

昨年末に申し込み、見事その権利を得た「言霊」が元旦に届きました。

札幌在住時からとてもお世話になっている、沖縄在住の神職である山野本竜規さん。

 

地方に移住してからは実際に逢うことがなくなりましたが、オンラインでもつながることが可能になっており、何かとお世話になっています。

 

言霊も毎年確実に、というものではないため、応募をしたけれど外れた場合は、「そこまで必要ない」というように解釈するようにしています。

 

幸いといいますか、現在のところここ数年言霊をいただく機会を得ることが出来ています。世の中にはいろんな指標がありますが、ぼくの場合はこの言霊を指標にしています(途中めっちゃ忘れるけど)。

 

 

年末には振り返りを行いますが、年始ではどのようなことが書いてあるのか見てみることにしましょう。

 

 

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メインテーマは「正直さ」となりました。

 

シンプルですが、大人になると難しくなるのも事実です。

 

 

開運キーワードは・・・子供心を忘れずに

折り合いをつけるのが難しそうです。

 

 

開運色はライムグリーンとなっていました。

 

 

どんな色でしょう?

 

こんな色でした。

 

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明るい緑、とイメージしておきます。

 

 

文面を読み、何も考えずに思ったことは、自分の中の正直さや子供心を「そのまま」表に出していくことは「危険」だと感じています。個人の経験からになりますが、それを出せば出すほど、離れていくものがあるからです。周りから見てみれば、それは不条理でしかないものに見えるようです。そこを迷いながら現在も生活をしています。この文面を何度か読んでいくうちに、これまでに抱いてきた恐れを大きくしてはいけないと思うようになりました。

 

 

 

 

過去の日記に書いたことですが、ぼくは「札幌から逃げてきた」という感覚が残っています。それは札幌での生活をつに馴染ませることが出来なかったという敗北感のようなものから来ています。社会に出たことで、多くの方から白い目で見られるようになりました。上司として頼られた時期もあり、小さな会社であってもそこそこの実績を残してきましたが、どうにもマイナスのイメージが強く残ってしまいます。それでも頑張って働いてきたのですが、活動の場所を地方に移すことが出来たことで、少し光明が見えてきたような気がしています。

 

とは言っても、今いる場所は町の郊外。

なぜここを選んだかと言いますと、「自分が選んだから」そして「自分が望んだから」。

 

この場所での職を紹介されたとき、純粋に「引き寄せの法則」を感じました。

(今は、この場所に「招かれた」と感じています)

 

 

この場所を基点としたかった理由は何よりも

 

「自分は極力迷惑をかけてはいけない。そのためには自然の中に籠る必要がある。」

 

という、後ろ向きの感情があったからでした。

 

 

札幌在住時に失敗ばかりの生活を送っていて、地方に移住したからといってそれが改善される確証はありません。むしろ気を付けなければならないのです。そのため、人と接するよりも自然と接したほうが、自分の生活としては向上するだろうと考え、それに適した環境に出会うことを願っていたのです。

 

果たしてこの先どうなるかはわかりませんが、少なくとも10年以上はこの地で暮らし、そして生活することになります。そのため、1年1年をどのように過ごすかを札幌在住時より頻繁に考えています。成り行きに任せず、数々のアドバイス等を刻みながら、激動の1年を過ごしていきたいと思います。

 

 

正直さかぁ。。。

 

 

 

 

 

果たして世界は優しいのか?

今日も雪が降り、月曜日からずっと降り続けています。

 

雪に重みがあり(水分を含んでいる)、雪玉や雪だるまなど、形作るにはもってこいの雪なのですが、やはり大量に来られると困ります (笑)

 

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近くまで町道が来ているのですが、そのお陰で雪が降りますと町の除雪が入ります。

ええ、毎朝、早朝に起こされます (笑)

しかし実際はありがたいです。

雪かき(除雪のこと)、半端ないですから(先日は午前中いっぱいかかった)。

 

 

またここのところ、寒い日が続きます。

天気予報では真冬日、ということを言っていたと思いますが、1日を通して氷点下5度より下、そして氷点下10度くらいにまで下がりますと、どんなに暖かい恰好をしていても、汗をかくような仕事をしていても、そのそばから身体が冷え始めます。

 

週末は牛の世話をしていたのですが、お昼ごろにそのような現象が起こりました。

気づけば外の天気は大雪になっていて、風もついてきていました。

こういう冷えは、なかなか温まりません。

ゆっくりお風呂に浸かるのが一番だと思っています。

 

 

 

このような寒い日でも、わたしたちは防寒着をまとうことである程度寒さを遠ざけることが出来ます。が、そもそも季節としては寒い時期であり、人間にとっては酷な時期でもあります。

 

そこで何となく思ったことは、「この世界は人間に優しいのだろうか」ということ。

それはちょっとスピリチュアルも入りますが、憶えておかなければならないことのように感じました。

 

 

 

 

実際、どうでしょうか。

 

この世界は、「優しい」でしょうか?

 

優しい、と言い切る方ももちろんいらっしゃると思います。

 

 

ぼくの答えは、「8割厳しく、2割優しい」。

この世界は、「大体が厳しい」と考えています。

 

 

 

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だって、優しい世界だったら、人間怠けますよ、絶対 (笑)

そしてその解釈をはき違える人も多数出てくると思います。

今の厳しさでも現実逃避をしている人は少なくありません。

厳しさは与えられたものであり、選んだものでもあると思っています。

実際には持ち越している、なんてことも・・・

 

 

無理くりなこじつけですが、厳しい世界だからこそ、季節の中でも寒くて凍える時期もあれば暑さにだれる時期もあります。何かを発信すればそれに噛みつく人も出てきます。そのような混沌とした中で「優しさ」だけを自分の元にもたらせたいとなると、事前にフィルタリングするしかありません。そうなるともう、現実がわからなくなると思います。

 

 

 

氷点下2桁の世界は、リアルに厳しい世界です。

氷点下2桁の世界以外のところでも、リアルに厳しい世界のはずです。

その厳しさから目を背けるか、それとも目を覚ましてスイッチを入れるきっかけにするかは、その人自身にしかできないことです。

 

特定の分野においても、日常の範囲においても、それは常に傍らにいます。

今年1年は厳しい時代となりましたが、その中でも身体を壊さず、元気に過ごしていくことが出来ればいいなと思いました。

いま苦しい人へ。

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誰かをこけにし、見下し、嘲笑う人には、この写真の凄さがわかりません。

では逆はどうなのか?おそらく前者よりは、この写真を見ようとするでしょう。

 

他人を意味もなく責める人にも残念ながら生活は存在しますが、

その人生までには責任は持てませんから、どのような生活を歩もうと、それは知ったことではありません。その人の人生の一部に関わっていたからといって、責任を背負う義務はまったくありません。

 

 

かつて、いろいろなことを言われてきました。

そのいろんなことを言ってきた人たちも、相応の年齢です。

中にはそれなりの地位にいる人もいるかもしれません。

しかし、そんなことはどうだっていいのです。

だって、苦しんでいる最中から数年経てば、まったく違う環境が訪れるからです。

そのときは、世界の中心ではありません。

だから、まだ生きていく余地は十分にあるのです。

 

 

ぼくはその昔、「使えない」だの、「死ねばいいのに」といった表現に代表される陰口や小言を言われ続けてきました。

 

そして卒業後、同級生が交通事故で無くなり、そのお通夜に行った際も、「お前なんでここにいるんだ」といった感じの視線があちこちから飛んできたことは今でも忘れません。その後カネコくんのことを思い出し、心の中で供養をしている人はどれだけいるのか?定期的に思い出し、供養の心を持つことがありますが、この実際を知りたいものです。他人を見下す人間は、大事なものが大きく欠けていると感じています。

 

 

数々の苦しい、死にたい経験を重ねても、いまわたしはここで生きています。

くだらないつながりは既に断ちました。向こうからもコンタクトを取ってくることはないでしょう。これが仮にもし、有名なこととして取り上げられたときにはどうなるでしょうか。そのときには大きな手数料でも支払ってもらおうと思っています 笑。

 

まだまだ、人生捨てたものではありません。

苦しさはずっとは続きません。

耐えることも大事ですが、しっかりと生きていくことも大事です。

もし死にたいと考え、実行に移そうとしているならば、その手を一度保留にしてください。

 

明日から死ぬのではなく、生きていく方法を考えていきましょう。

 

 

あなたはひとりではありません。

必ず、あなたの味方は存在していますから。

美しい世界をちゃんと見ているか?

夕暮れ時に電波の届くところまで車を走らせ、その帰りに写真を撮りました。

(住み込みで働いているこの場所、ド〇モさんと〇uさんが常時圏外です。)

 

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(フラッシュ作動)

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スピリチュアルは、そんなにいらない。

世の中が不景気、またはそれに準じた状況になりますと、決まって出てくるのが

 

「楽して〇〇になる」

 

といった数々の話だと思います。

 

 

楽という部分にはいろいろ定義(のようなもの)はありますが、かんたんに言えば、自分の側の負担が少なく、逆に利益は大きいとされるものになります。

 

しかし実際はそううまくはいかないようで、負担ばかりが増えていき、利益も最初の数回、または数カ月のみ、といった展開を迎えます。

 

それが実際に救いにつながるのか?と考えた場合、正直に疑問に思います。

「信じれば救われる」と”しか”言われていないのに、いざ信じてみると次々にノルマが出てくる。話がまるで違ってきます。これはもう、お客が顧客になった瞬間、リピーターにするための、狡猾な手段なのだと感じています。

 

 

 

なんでこんなことを書こうとしたのだろう?

 

 

職場の敷地内ですが、ありきたりな、こんな光景を見てこう思ったのです。

 

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「スピリチュアルって、そんなに必要なものなのだろうか?」

 

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「成功者」の条件を考えた。

世の中の色んな流れを見ていますと、どこかのタイミングで「金持ち」がいわゆる「成功者」として前面にプッシュされることがあるようです。

 

確かに、お金があれば何でもできます。お金がなければなんにもできない。

色んな人や話が集まります。その人の周りは活発になることでしょう。

ここまでは安易に想像できるのです。

 

問題は、ここからです。

 

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