令和6年4月の創作①【短歌】
朝晴れて 昼に曇って 夜は雨 星が見えるのいつになるかな
待ち列に 天邪鬼のお児がいて わかる気がして声出しわらう
ぜったいに 我が家というわけではないけれど 住み慣れたそこはスーパーホテル
小さな画面越しから猫に話しかけるけど 猫はストーブに忙しかった
何をどう言えば伝わるのか。
これを延々と考えることがあります。
同じ会社内でも、部署が違うと使う言葉も変わってきます。
そうすると、同じ意味合いを指す表現でも、「違う」と言われてしまうことがあります。しかし先方もどのように伝えればいいかわからないこともあります。そうすると時間だけが過ぎ、考えるのが面倒になって、簡単な依頼だけを行ってクローズ、なんてことがままあります。
伝わる、伝わらないは、どうやら職業をはじめとした「日々の生き方」でずれが生じてくるようです。
ではこれを解決するにはどうすればいいのでしょうか。
いまわかる限りでは「対話を重ねる」「対話を尽くす」くらいしか思い浮かびません。
それが近道なのかどうかはわかりません。とにかくやるしかないのです。
最近の人類は根気強くということを忘れつつあります。
感情に走ってしまうとこれまで積み上げてきたものが崩れてしまいます。
そうならないように気を付けたいところです。
相手が何を伝えたいのか、じっと耳を傾ける努力をしたいと思います。
時間通りにおえること。
時間通りに仕事を終えることが出来るとなんだか気持ちいい。
心も軽くなる感触を得ることもあります。
それは手元にある仕事がさほど溜まっておらず、切羽詰まってもいないという理由があるからです。
反面、仕事が延々と続く、残業続きの時は気持ちが重くなります。
単発の残業であればいいのですが、月末月初や年度末など、処理のオンパレードのときは残業も連荘となります。残業代はきっちり出るのですが、体力はなかなか回復しません。最近残業の連続を経験したのですが、頭のもやもや感がなかなか取れず、すっきりした感覚を得るには週末を潰さなくてはなりませんでした。
仕事をしているとき、時間内でも残業中でも、脳内に何かが走り回っています。
それは「この仕事を片付ける」ためのエネルギーのようなものですが、かんたんにオンとオフを切り替えられるわけではありません。どうしてもクールダウンの時間が必要なのですが、そこがうまくいかないと翌日の午前中まで引っ張ってしまいます。その連続が続くと疲弊という文字と抱き合ってしまうことになるので、定時で仕事を終えることは必要なのです。
郵便物などがバンバン届くと思っていた月曜日でしたが、思いのほか余裕をもって過ごすことが出来ました。普段は素早さを求める仕事も、丁寧さを考えることが出来たように、仕事量は人間の性格をいともかんたんに変えてしまいます。これがずっと続けばいいのですが、そうもいきません。また月末という山を超えなくてはならないのです。
アップダウンの激しい仕事であっても、身体を慣れさせなくてはなりません。
いまは身体を慣れさせる時期。いまは頭にリズムを叩きこむとき。
残業になったら仕方ない。怒られない程度に、または怒られること止むなしで、自分に仕事のすべてを叩きこむのです。
本日の昼食。
朝から所用で函館市に。
用事そのものは短時間で済んだので、とんぼ帰りです。
しかし、昼食のことを考えなくてはいけません。
どこで食べようか、と悩んでいたのですが、事前に家人と打ち合わせた結果、
北海道森町赤井川にある「レストラン山陽」さんに初訪問。
ラムステーキを注文しましたが、美味しかったです。
値段はそんなに高くないはずです。
近隣にラッキーピエロさんやケルンさんなどの競合店がありますが、ここだって負けてはいません。落ち着ける空間で、大きな窓からは駒ケ岳も見えます。ここで一息つくのも悪くないと思います。
どうしても地元や函館の飲食店にいきがちなのですが、最近は冒険心が芽生え、いろんなお店の外観を見ては情報を確認しています。その土地にはその土地のうまさがありますので、これからも堪能していきたいと思います。
どこまでいけるか。上を目指せるか。
こういう考えは若いとき限定のような気がしていました。
情熱大陸で。ジャズ作曲家の狭間美帆さんの特集をみました。
とても刺激的で、啓発される内容でした。自己啓発本を読むよりもです。
挟間さんの言葉には説得力があり、また力がありました。
語られる言葉はシンプルでしたが、うなずかせるものがありました。
驚いたことですが、挟間さんは日常のことやツアーに関わることを一人ですべて行うとのこと。多忙な中でそのようなことも行うのは、大変だと思います。
しかしそれができる、もしくは実行するというのは、管理能力があるのか、もしくはリズムが整っているかのどちらかなんじゃないかと個人的に考えています。
彼女のようにはいきませんが、この番組を見て、自分はどこまでいけるだろうかと考えてしまいました。
つまりは、高みに登れるか、ということを考え始めたのです。
ひとりで何かを行うには限界がありますが、挟間さんのそれはその限界を意識していないように思えました。それは自己との対話を徹底的に行うことで、納得のいく答えを出すという姿勢がそうさせているのだと思います。
果たして、自分にそれができるでしょうか。
現在、ひとりでの立ち回りでまだどのような行動も定着していません。
そのなかで落ち着かせていくのは、至難のわざだと思っています。
その反面、別な自分は「自分はどこまでやれるか」というのを興味深く見ています。
少し変態的ですが、「自分がこの小さな世界をどこまでコントロールできるか」という野望のようなものを抱きつつあります。
これらの展望が叶うまでに体力と思考力がもつかが問題です。
もっと若いときにこのような向上心があればと後悔しているくらいです。
ですが、札幌で働いている時にはもうこの気持ちは湧きおこりませんでした。
出世も何も考えなくなったいま、再び何かを目指したいと思えるようになっています。
倒れるまでというのは表現上よくはありませんが、とことん突き詰めていく意味はあります。
ここでどこまでいけるか。どこを目指せるか。
次があるなしに関わらず、ぼくはこの場所で対話を重ねたいと思います。
ねこはわかってくれている(と思う)。
今月に入ってから残業が続いています。
定時で仕事を上がることが出来たのは昨日今日くらい。
それまでは文字通り朝から晩まで働いていました。
そのような状況だと、まず頭が冴えないです。
若いころのようにはいかないので、頭がすっきりしてくるまで時間がかかります。
そのため大事な仕事は午後に回し、午前中はシンプルな業務をするように切り替えました。
疲れが溜まると、食事も簡素にしたくなります。
しかし食材もあるので、夜は簡素だったとしても、昼は自炊するようにしています。
仕事とは違うことに頭を使うことは切り替えにいいんじゃないかなと考えています。
朝、起きるのが少し遅くなりました。
ルーティンのモーニングコーヒーは欠かしていませんが、眠気が勝ってしまいます。そしていいんだか悪いんだかですが、飲酒しなくてもぐっすり眠れます。
しかし、ねこには心配をかけています。
預ける時間が多くなったので、寂しい思いをさせていました。
今日はなるべく一緒にいるようにしています。
ねこはしきりに飼い主を呼び、ある程度の意思表示(クレームかも)をしてから、飼い主の近くで丸くなるか、猫鍋に入って落ち着きます。ひょっとすると、人間よりもねこのほうが人間のことをわかっているのかもしれません。
にんげんはにんげんのことをわかっているようでわかっていないことが多くあります。
ねこはにんげんのことば話せませんが、そのかわり何かがしっかりとわかっているのかもしれません。
勝手な解釈ですが、我が家のねこに感謝です。
私たちは揺らぐ。
韓国の選挙が話題になっているようです。
何でも野党が政権与党を上回る議席を獲得する見込みとのことで、確定すればいわゆる「ねじれ」が生じるとのこと。政権運営が難しくなってきます。
日本の政権運営もそうだと思うのですが、なかなか手を取り合ってやっていくというのができないようです。勢力というものは相対する勢力を引きずり降ろそうとするのが本職に思えるくらいです。なのでどちらの勢力も「自分たちがのし上がる」ことだけを重視していて、いざ運営をしてみると「大して変わらないじゃん」ということになりがちです。そしてまた舵取りを奪われてしまう。この繰り返しの歴史だと思います。
端から見てると「なんだかなぁ」と思うことしばしばなのですが、この繰り返しを見ているとなんだか意欲がなくなってきます。自分の仕事以上に意欲がなくなる。大きな物事の運営でそれがあってはならないのですが、それはもう魔法にかかったくらい。逆にそうすることで運営しやすくすることを狙っているのではと勘ぐってしまうほどです。
わたしたちは「揺らぐ」いきものだと思います。
何も選挙の話だけではありません。恋愛もそうですし、仕事だってそうです。
分岐点があってもなくても、何かの機会に揺らいできたはず。
それがいいか悪いかではなく、これが人間なんだという自覚をもたらすものです。
この揺らぎを自覚することで、少し世間の見方が変わるかもしれません。大きく変わっていくには、もっとたくさんのひとたちの自覚が必要になりますが。
韓国は日本の隣国です。これまでああだこうだ、そうだそうじゃないと言われ続けてきましたが、無用な争いは避けたいとの気持ちが強くあります。
穏便に無難に、安穏に安全に、物事が進んでくれることを願うばかりです。
責めるなら責められる覚悟をせよ。
まさしく、である。
急激に他人を責める光景が増えた。詳細を見ることまではほぼしないが、どのようなことでも発端となり、責める側と責められる側に分かれてしまっている。
どうしてそんな構図が出来てしまったのだろうと考えるが、まとめてしまうと社会が病んでしまっていることに他ならない。この様相を誰かが戦争と表現した。まさしくだと思う。
しかし不思議なのは、「責められてあたりまえ」「責めてあたりまえ」な風潮があるということだ。「あたりまえ」となるとちょっと感覚が違うような気がする。今のような風潮だと、あたりまえという表現を無理やり当てはめているように感じてしまう。なんとなくだが、責めるという点における沸点が大きく変わったということになるのだと思う。加えて匿名性が拍車をかけており、それはもう無双状態である。これでは責められる側はたまったものではない。
反面、責める側は自分が「責められる」ことを想定していないような気がする。
もっと言えば「自分が責められるはずがない」と考えているかもしれない。
要するに、「責められる要素はない」と考えているようなものである。しかしながら、実際はそうならないのが常である。そういう時に限って、その人は自分が被害にあったことをことさらアピールする。なぜなら「責められるべき存在ではない」からだ。そうなるとこの世界には「責められるべき」人がいて、「責めるべきではない」人がいるということになる。それは違うのではないだろうか。
自覚の話も少ししたが、責める以上、責められる自覚を持つべきなのだと思う。
そうしなければ、この世界は荒れていくいっぽうである。
今こそが世紀末なのかもしれない。
現代は以前よりもずっと、息苦しくなっていると思う。