あの日から。
モノ&メンタル認定試験の日から。
竹内さんを「遠ざけて」います。
その理由は「認定試験」の中身がいわば「ショッキング」だったから。
その日からしばらくの間、竹内さんへは一言も言葉を発しませんでした。
結局、仕事をひとつ失ってから絞り出すようにしてメールを1通送ったのみ。
その後も大きな変化は迎えていなかったのです。
しかし、瞑想時の経験や認定後のガラクタ整理再開などでだんだんと心が落ち着きを取り戻しつつあり、大きな抵抗もない自然な流れで「あの日のことを振り返らなくては。」と思うようになりました。
しかし、頭のなかでは依然としてごちゃごちゃしており、ときには感情が昂ぶってしまうことも。自分でも珍しく、ある程度ガラクタ整理が進んでからは所謂「怒り(仮称)」のような感情を抑えきることが出来ず、ミニテーブルを力いっぱい叩いたり、じぶんの足に向かって思い切り拳を振り下ろしたりと、表に出すのは良いものの、モノを壊したりわたしが怪我しかねない状況になっていて、一進一退の状況となっていました。
そのため、心の整理は「ノートに書き出す」ことから始めることに。
いろんなことを書いては自分を責め、また本気で竹内さんを責めました。
家人をも、それ以外のことについても、責めていました。
書きなぐったページの一部
ノートに書いていたことを抜粋すると
・竹内さんの人柄に疑問?
・認定は返上する?
・ダメ出しやドM発言が、これまでの頑張りを違うところへ
・心の整理とは、もし自分が全部悪なら
・「期待」していなかったか?「こうあるべき」と思っていなかったか?
・自分はどうしたいか
勢いのままに書いていましたので、若干わからないところも。
この時点で、竹内さんを「信用することはできない」気持ちが出てきていた状態にあったのは事実です。
そして、あの時の状況を
・イベントまでの時間は僅か。⇒急かされた(急かした)
・~だからという文句が否定的になる
・何も言えない
・整理するしかなかった
・ガラクタと何となく理解できていても納得できないものがあった?
と酷評。
そして
「その人にとっては辛く、または怒りに満ちるかもしれないことを僕は伝えることができるのか」
と
「今回のような、相手の心情を考慮しない方法でもガラクタに対する指摘をすべきなのか」
ということを書いています。
これに
「どれくらいショッキングになるのかを想定せず、たとえ信頼関係があっても」
という文言を付け加えています。
なんのこっちゃわかりませんが、実は竹内さんからのメールに
「ショックなのはわかる。でもふさぎこんでしまうのは意外」
「アドバイザー講座ではかなり厳しい指摘を相手にすることになる」
「この状態では、講座には耐えられない」
という文言が入っていたのです。
確かに、わたしにとってはとっても「厳しい」言葉ではありました。
しかし、この中には「厳しさ」しかなかったのか?というのが素朴な疑問でした。
竹内さんはわからないことがあったら聞いてくださいと連絡を下さっていましたが、わたしは連絡できませんでした。連絡しませんでした。
前にも書きましたが、この時点で竹内さんが信頼出来なくなっていたからです。
そんな状態で聞いたとしても、どんな答えが返ってきたとしても、その時のわたしには届かなかっただろうと思いますし、聞くという選択肢はまったくありませんでした。
この時の感情としては
「あの日の竹内さんの『やりかた』は『間違っている』。たとえ【正しいこと】でも、やりかたに問題があれば伝わるものも伝わらないし、それをすべて受け容れる側の度量に任せるのは少し違う」
というものがあったからです。
単純に
「無責任では?」
と感じてしまったのです。
そして同時に思ったことは
たとえ厳しい指摘をしなければならなかったとしても、こんなやりかたで伝えたくない。
ということでした。
かといって「じゃあどうやって伝えるのさ?」と言われても、今はなにも浮かびません。
ただ「厳しさ」のみを伝えるのではなく。
なにか、方法はあるんじゃないかと思ってしまうのです。
自負ではありますが、わたしはわたしなりに「ことば」を大事にしてきました。
その価値観は人それぞれですが、竹内さんのことばは完全に人(わたし)を馬鹿にしていると感じたのです。だから認定を返上しようと考えているし、以降の講座は受けずに仕事を展開していこうとも考えています。これほどの憤りを抱えるとは正直思ってもいませんでしたが、不思議なのは「感情に支配されない」程度で済んでいることでした。
「感情的な」ことばをひととおり吐き出した後。
原因を探る作業に手をつけました。
意欲
ことば
情熱
覚悟
これらがまっしろになったのは、
なぜそうなったか
どこに原因があるのか
何がきっかけか
怒りがあるのはなぜか?⇒理解されていないと感じるから?
「じぶんは認めてもらいたかった?」
「じぶんは褒めてもらいたかった?」
それとは裏腹に
じぶんはこの世界にそぐわないのか
だから苦しいのか
だから辛いのか
無力感
という真逆なことばも書きなぐっています。
これらを完全に整理するのは一生をかけてになるかもしれません。
でも整理できなければ、わたしはどこかのタイミングで間違いなく人間をやめるだろうと思います。
「人間をやめる」とはもう思いたくない。
だから「覚悟」決めて、ガラクタ整理を始めました。
「仕事」を始めました。
それがわかってんのか!!!!!!!!!!!
笑って「別に?」と返されそうですけどね。
ぼくが人間らしく生きる。そのラストチャンスをガラクタ整理に込めました。
でも、それが込められていないと思われたかもしれません。
家人にもお願いをしてこのチャンスをもらいましたが、これでNGが出たなら。
もうこれ以上やることはないです。
後悔することもないです。
と観念して、フェードアウトすることにします。
こんなことを考えてると「ピリピリしてる」ということがじぶんでもわかります。
そして「いつからこんなにピリピリしてるんだ」と考えるようになりました。
いつからだ。
いつからだ。
いつからだ。
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浮かんできたことは
・イベントの集客が順調に進まなかった(と感じていた)こと
と
・宗教団体から脱退する前後で、少なからず不安定になっていたこと
でした。
イベントの集客に関しては正直なところ
「失敗」
と感じていました。
理由としては「満席に出来る」と信じて疑っていませんでしたが、結果満席にはなりませんでした。
一にも二にも「力不足」。
周りは「最初から成功していたら~」と言っていたり
「最初に手掛けたイベントでは合格点の集客」と評価していただいたりしてましたが、
自分自身は納得いかなかったのです。
これも語れば長くなるのでここでは割愛しますが「こうはなりたくない」という人と、経験した出来事があってのことでした。このケースも整理していかないとならないのでいずれ触れることになりますが、このイベントではかなり厳しく自分に当たっていたのかなとも感じていました。
宗教団体からの脱退に関しては、急速な流れで決めたものでした。
疑問自体は数年前から抱いていた程度で、実際にどうするということは特に考えていませんでした。その疑問を解決すべく手の届く範囲内で調べ物をしてみたり、独自に書籍を読んでみたりと思索を重ね、ガラクタ整理に当てはめて整理の対象となったのです。
モノはかんたんに整理ができます。
しかし肝心なのは「心」「感情」の整理。
それがここで一気に露わになりました。
整理前後から、不安定になっていたと。
わたしが脱退した宗教団体。
それは、創価学会でした。