つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ふいに訪れた発見が、とても大きな気づきを伝えてくれました。

きょうは以前にお誘いいただいていた、いけばなの展示を見に行ってきました。実は過去に1度だけお花をいけたことがあり、それがご縁で展示会に招待していただいています。

 

展示会場は札幌駅付近であったのですが、昨夜から天候はぐずついており、外もなんだか蒸し暑い様子。じとじとするのはやだなーとか思いながら、その他の予定を組み込んで外出することにしました。

 

 

出掛ける前に実は思ったことがあって、地下鉄で会場まで行くにはおよそ30分が目安。それってちょっとなーと思ったのです。いつもであればそれくらいの時間はなんてことないのですが、今日の天候がそういう気分にさせたのか、何だか地下鉄で行く気がしなかったのです。じゃあ、何で行くの?となった時に思いついたのが、このところ利用しなくなったバスでした。

 

現在の主な移動手段が車と地下鉄中心の生活になってしまったため、バスという選択肢がすっぽり抜けてしまっていたのが本音で、手段としてはあまり乗り気のしないものでした。

 

その視点が変わったのは去年そして今年の前半と頻繁に上京していたときで「都バス」を利用したことがきっかけでその価値観が変わりました。移動時間はかかるけど、循環バスだったら運賃は下手したら一番安いのです。そんな大発見(笑)をしたのちに札幌でもいくつかの路線でバスを利用したことから、今回の選択になりました。

 

路線はJRバスが運行するもので、北5条通りから札幌駅へ向かうバスへ。

このバスは循環であるため、地下鉄の運賃よりも結果安く札幌駅へ行くことが出来ました。

そんな軽い冒険をしつつ、いけばなの会場に足を運んだのです。

 

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伝統。

 

 

展示会場はそれぞれのテーマ別にいけばなが展示されており「器」にフォーカスしたものや「伝統」を重んじたものなど、素人のわたしか見れば「攻めてる」感じがします。しかもロビーや会場の壁には「レリーフ」も飾られており、これはもうフラワーアレンジじゃあないのかと困惑(本人は違いがわかっておりません)。

 

それでもいけてあるお花の華やかさや静謐さ、凛とした作品を見ていくと、伝え方には限界だとか、一定の枠のようなものはないんだなと教えてもらいました。

 

強烈に印象に残ったのは、展示の中にあった「器」。

いけばなでは花器(かき)を使っていけるというのがセオリーだと思っていたのですが・・・

 

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おどろき!(おそらく卵の容器をうつわにしてます)

 

 

ここで花器として使われていたのはほんとうに様々で、かばんがあったり、わっぱがあったり、写真にもあるりんごの木箱があったりと、お花も素敵なのですが花器にも目を奪われてしまったりと大層忙しい結果に。それでも、いけばなの楽しさが伝わればという想いが込められてのことなんだろうなと考えながら、その衝撃に包まれていました。

 

 

 

その後はJRタワーの展望台へ。普段は平日、しかも天気のよい時を選んでいくのですが、この日は何故か「曇りでもいいんでないかい」という気持ちになっており、いつもと違う自分がちょこちょこ顔を出していました。

 

展望スペースから外を眺めてみるとやはり厚い雲に空は覆われており、藻岩山にもかかるほどの天気。どんよりした天気ではありましたが、しずかな空間が出来ていたので結果オーライ。軽食を注文してデスクワークにいそしみました。

 

デスクワークはガラクタ整理とオラクルカードのメニュー作成で、友人のアドバイスをもとに赤ペン入れ。そのアドバイスの内容も自分では思いつかないことであり、そしてとてもいい刺激になったのはたいへん嬉しいことでした。

 

 

 

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そんな流れで過ごした時間の中で思ったことは

「伝える 伝わるは ルールの向こうに」ということでした。

 

このセリフは最近見ているテレビアニメ「ちはやふる」という作品で出てくるものですが、それがとても心に残っていました。

 

 

 

伝えることも、伝わることも、自分で意図した通りにいくとは限らないと思います。

いや、意図した通りに仕組むことは可能だと思いますが、果たしてそれが本当に伝えたかったこと、伝わるものかと言えば、それがすべてではないような気がします。

 

 

 

人間の考えなど「その程度」という訳ではありませんが、考えが加わるからこそ自然とわたしたちは「枠」を創ってしまいます。その枠は「自我」と同様で、それに固執してしまったり、囚われてしまったりすれば、それは自分が想定したこととは違う、悲しい展開を生んでしまうかもしれません。

 

わたしも自分の考えに「囚われたまま」メニューを作成したとして、結果お客さんは来るかもしれませんが、その反響は「限定的」になったのではと想像しています。こうして自分の外側から色んな刺激、言葉にならない言葉をもらうことで、もう少し時間をかけてでも、よりよいものを創っていこうという励みになりました。