きょうで7月もおわり。なんて早ぇぇぇこと・・・
梅雨前線の影響からか、ここ数日蒸し暑いですね。
リアルに熱中症にならないように気をつけたいところです。
もう8月。
あっという間に、8月です。
この間、たくさんの気づきを得、たくさんの考えを持ちました。
じぶんには必要ないというものは、気持ちや考えですら捨てました。
その行動、展開を繰り返し繰り返し。
残ったものは、揺るぎない気持ちや、シンプルで進んだ考えでした。
ガラクタ整理というワークは、不要なものは手放しますが、残ったものはより「洗練」された状態になっている。
モノに対してはそこまで感じることはないかもしれません。
しかし、心、ハート、マインド、考え、願い、揺るぎなさといったものは、その「純度」が確実に増します。
わたし自身の経験でしかまだ言うことは出来ませんが、これは誰にでも経験・体感することは可能だと思っています。敢えて言えば、ただガラクタを整理して終わりにしては、その効果は半減する。心に向き合わなければ、肝心な部分のガラクタは「残ったまま」になってしまう。それを終わらせるかどうかは、自分以外の誰でもありません。
現時点でわたしが感じていること。それは
「師を求めず 師の求めたるところを求めよ」
というものです。
原典は松尾芭蕉がしるしたことばで
「古人の跡を求めず 古人の求めしところを求めよ」(許六離別詞)
というものです。
前述の「師を求めず~」からもわかるように、意味として(おおまかに)は「師匠や他の人のまねをせず、自分の道を探して進みなさい」というものです。
でもそれは「表向き」の言葉だったとしたら、どうでしょうか。
国語や古典の授業でも教わったことですが、昔のひとは、その言葉に並々ならぬ「想い」や「願い」を込めたと言われています。文章を読み解くうえで出てくるのが、当時の状況から推察されるその人の「気持ち」です。
昔は、遠く離れることは「一生の別れ」とされてきました。
それくらい長距離移動にかかる時間が半端なかったということと、土地を離れるというなじみない慣習に対する切羽詰まった思いでした。
いまでこそメールやSNS、電話も普及しているので不都合は感じませんが、つい数十年前まではそんな環境であったことは意外と知られていないのかもしれません。
書かれている文字そのままの意味が「表面」にあるものとして、文面の底に隠された、秘めた想いは「奥底(おうてい)」にあたります。見落としがちになりますが、小説であっても、手紙であっても、実は古くから続いているもの。ひょっとすると、普段の会話でも表向きのことばの中に、実はそこに「隠した」ほんとうの想いが込められていると言えます。
では、このことばの「隠した」想いはなんだったのか。
見えてくるのは
「二度と逢えぬ覚悟を感じた、師匠の手向けのことば」というものでした。
わたしと竹内さんのガラクタ整理に関する関係はもう終わった、とは思っていないですし、もう逢うこともないとは考えていません。でも、いつまでもわたしが竹内さんの後姿を追いかけるようでは、一人前にはなれません。
思えば4月のイベント後、わたしを気遣うメールをいただいていましたがそれに返信すらもできず、心の整理をしなさいと告げられ、その後のやり取りは途絶えています。先日現在の自分の状態と、自分が展開する仕事について報告をしましたが、それっきりです。
その期間は2か月半ほどという短い期間ではありましたが、竹内さんを意識せず、とことんガラクタ整理と向き合ってきた気がします。自分と向き合ってきた余韻が残っています。それを意図して教えるのはまず無理だとは思いますが、このふたりが創りあげたものの、その先にある展開が、今のわたしの成長を作ってくれました。
「師の求めたるところを求めよ」
うまく説明は出来ませんが、自分の中ではこれが「わかって」います。
これがわかったからこそ、安定という領域に達し、揺るぎなさを得たのだと思います。
それがすべてかどうかはわかりませんが、竹内さんが追い求めるものの中の「ひとつ」だと確信しています。
きょうはとても蒸し暑く感じた1日でした。
家内を車で送り届けたついでに、月寒公園へ涼みに行きました。
月寒神社すぐそばにある紫陽花
残念ながら改修工事が入っており一部のスペースは立ち入ることが出来ませんでしたが、公園の緑と花の彩が、去年からの1年の頑張りを認めてくれているようでした。